マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

闇路に闇路を踏みそえて

 ついうっかり愚痴をもらしそうになるということは――
 誰しも日常的に経験していると思いますが――
 
 僕も、経験している一人です。
 
 そうやって愚痴をもらしそうになって――
 もらさずに済んだときは、
(ああ、よかった)
 と――
 清々しい気分になるものですが――
 
 ついうっかり、もらしてしまったときは――
 とても残念な気持ちになります。
 
 それは、たぶん僕に限ったことではないでしょう。
 
 ――六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死を離るべし
 
 とは――
 江戸中期の高僧・白隠(はくいん)慧覚(えかく)の残した『坐禅和讃』の一節です。
 
 ここでいう「六趣輪廻」とは、「六道輪廻」と同じ意味で――
 仏教でいうところの6つの迷いの世界――天道・人間道・修羅道畜生道・餓鬼道・地獄道――をさまようことを指しています。
 
 その“さまよい”の原因が「因縁」であり――
 その「因縁」こそが「己が愚痴の闇路なり」というのですね。
 
 いつも愚痴をこぼしながら生きることが“闇路を行くこと”に喩えられているようです。
 
 僕が、
(いいな)
 と思うのは――
 その次の「闇路に闇路をふみそえて」の句です。
 
 この句、“とことん愚痴をこぼし続けること”を意味してはいませんかね。
 
 人は、愚痴をこぼしに、こぼして、こぼし尽くせば、いつか生きる苦しみや死ぬ恐怖から開放されるであろう、と――
 
 愚痴をこぼすことの無意味さだけでなく、そのツラさや疎ましさ、煩わしさ――そういったものすべてを痛感することで――
 人は、やがて愚痴をこぼさなくなる――
 
 そういう意味に――
 僕には思えてなりません。