マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「たとえ答えがわかっても……」とはいうけれど

 高校生のときに――
 数学の授業で、

 ――たとえ答えがわかっても、きちんと答案にまとめない限り、答えがわかったことにはならないよ。

 と教わって以来――

(そんなもんか)
 と思い定めて――

 以後、僕は――
 高校の数学の問題はいうに及ばず――
 いかなる「問題」に取り組む際にも、できる限り「答案」をまとめるように努めてきましたが――

 最近、
(自分さえ納得できれば、「答案」は不要じゃないか)
 という怠け心がムクムクと頭をもたげはじめています。

 そうです。

 ――「答案」というのは、しょせん他人を言い負かすための道具にすぎないのではないか。

 という疑念が――
 歳をとるごとに、だんだん強くなってきているのですね。

 もし、「言い負かす」が表現として強すぎるなら、別に「説得する」でもよいのですが――

 20代の頃なら――
 相手を(あるいは不特定多数の人々を)説得することに、十分な気力や体力が注げました。

 が――
 40歳になって――
(ま、いいんじゃないか、そこまでやらなくても……)
 という気分に、だんだんなってきたのですね。

(わかる人にはわかる。それでいいじゃないか)
 と――