マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

怖いくらいに縛りのない自由な手法

 フィクションでは――
 何をどんなふうに描こうとも自由ですから、最終的には、

 ――所詮はフィクションなので、目くじら立てないで下さい。

 で済ませてしまえるように思われがちです。

 が――
 この「何をどんなふうに描こうとも自由」という点こそが――
 むしろ、フィクションの発信元に倫理上の縛りを施しているといえます。

 ノンフィクションであれば、それは現実に即して、論理的に描かなければならない――
 そこには「現実に即する」という名の縛りが必然的に施されます。

 が――
 フィクションでは、「現実に即する」という名の縛りがない――
 いくら現実から遊離してもよい、いくら非論理的であってもよい――

 それは、怖いくらいに縛りのない自由な手法なのです。

 それゆえに――
 発信元の心根が剥き身で晒されやすい――
 その心根に潜む偏見や誤解が露見しやすい――

 フィクションで発信をする者は――
 つねに、この自由の怖さを肝に銘じておくのがよいと思います。