――40代の壁
というのがあるそうです。
ちょっと気になりました。
僕は今年で41歳になったので……。
……
……
「40代の壁」とは、何か――
曰く、
――人は、30代で一人前になり、「自分は一人前である」と気づき、自信を深め、“お山の大将”になる。ところが、40代になって、自分以外にも“お山の大将”が大勢いることに気づき、自分も、その大勢の“お山の大将”の中の1人に過ぎないことに気づく。そして、葛藤が始まる。
という「壁」だそうです。
きっと、
――“一人前”って、何なんだろう?
と考え込んでしまう結果なのでしょうね。
「40代の壁」は「“一人前”の壁」といってもよいでしょう――あるいは、「“お山の大将”の壁」……
……
……
僕は、“一人前”という概念は理想形だと思っています――もっといえば、幻想形だ、と――
実在するのは、“半人前”だけであって――
それは、正確には「“半人前”という状態」です。
この“半人前”の状態でない状態というが、理屈の上では、“一人前”なのですが――
では、
――“半人前”でないなら、“一人前”であるのか。
といわれれば――
おそらく、そうではありません。
たしかに、“半人前”ではないが、“0.8人前”かもしれないし、“0.3人前”かもしれない――
ここでは――
“半人前”とは何か、“一人前”とは何か、“0.8人前”とは何か、“0.3人前”とは何かという話は、さして重要ではありません。
“0.8人前”は、“半人前”よりはマシであるけれども、“一人前”ではない、くらいの意味で――
“0.3人前”は、“一人前”はおろか、“半人前”よりもヒドい、くらいの意味です。
この際、“0.3人前”が“半人前”や“0.8人前”と比べてどれだけヒドいのか、といった定量的な評価は――
はっきりいって、どうでもよい――
大切なのは、
――あいつは“半人前”だ。
という烙印を押されることの不快性です。
皆、その不快から逃れるために、「“半人前”の状態ではない状態」を目指すのです――
それが、“一人前”という理想形ないし幻想形です。
そして――
人は、自分が周囲の人たちから“半人前”の烙印を押されなくなってようやく、自分が“一人前”であることを実感できる――
が、それは、実際には錯覚かもしれなくて――
実は、周囲の人たちは“0.3人前”という新たな烙印を押しているにも関わらず、皆それを面と向かってはいわないから――
本人だけは“一人前”になったと誤解している、とか……。
「“一人前”の壁」とは、“一人前”の理想形ないし幻想形がどこかに実在すると信仰し始めるところから聳(そび)え立っているのではないでしょうか。
そうした信仰を捨てれば、「“一人前”の壁」はみえなくなり、“40代の壁”も感じられなくなるのではないか――
そもそも、つまらない“お山の大将”になど、ならずに済むのではないか――
そう思います。