日本では、
――推定無罪の原則
が受容されがたい、といわれています。
昨今も――
アギーレ監督は、捜査当局に告発をされた時点で職を辞し、謹慎しているべきだ――
との見解が根強く残っています。
そうした見解に――
当のアギーレ監督が、記者会見の席で猛反発をしたそうです。
――推定無罪の原則を守ろうとしないのは日本くらいだ。
と――
アギーレ監督の苛立ちは、よくわかるような気がします。
というのは――
欧米では、推定無罪の原則が、かなり手厚く守られているらしいからです。
日本との違いは何でしょうか。
それは、おそらくは、
――有罪の立証は難しい。
との社会的総意の有無ではないかと――
僕は考えています。
欧米では、「有罪の立証は、誰が試みても、原理的に困難である」という実感が広く流布しているのに対し――
日本では、「有罪の立証は、法律の専門家が本気で試みれば、さほど困難なものではない」という認識が蔓延しているのではないか――
ということですね。
この場合の「困難」や「容易」とは、あくまでも論理的ないし技術的な「困難」ないし「容易」であって――
心情的な「困難」や「容易」のことをいっているのではありません。
すなわち、欧米人の多くは、
――たとえ誰かを有罪にすることに心理的な負担をまったく感じない検察官であっても、法廷での有罪の立証という手続きは本来、難しいものである。
と感じているのに対し――
日本人の多くは、
――有罪の立証は素人には難しい手続きであろうけれども、それなりの技能や経験を備えた検察官たちにとっては造作もないことに違いない。
と思っているのではないか――
ということです。
立証とは、“証拠”という名の根拠を明確にした証明のことです。
論理の展開を間違えないようにすることは、もちろんのこと――
どのような根拠に基づくのか――その“証拠”をどのような基準で選ぶのかが、最も難しいといえましょう。
なぜならば、“証拠”の選定は、最終的には、人の主観に頼るしかないからです。
このことに、多くの日本人は気づかない――あるいは、あえて目をつぶっている――
そんなふうに、僕は感じています。