僕は、しばしば好んで「美しい」の話をするのですが――
「美しい」の話は、本当は、しないほうがよいのですよね。
普遍性に乏しいからです。
例えば――
Aさんの「美しい」とBさんの「美しい」とは、かなり高い確率で合致しない、といわれています。
ある人は、確率2分の1くらいで合致しないといい――
ある人は、確率100分の99くらいで合致しないといいます。
つまり――
主観の多様性の問題ですね。
この多様性が「美しい」の話をつまらないものにしやすいのです。
さらに深刻なのは――
主観の刹那性の問題でしょうか。
これは――
時が経つにつれて――
AさんならAさん、BさんならBさんの中で、「美しい」の基準が変わっていってしまう――
という問題です。
過去のAさんと今のAさんとが異なるものを美しいと思ったり――
今のBさんと未来のBさんとが異なるものを美しいと思ったり――
僕個人の話をすれば――
今、困っているのは、主観の多様性ではなく、刹那性のほうです。
近年、痛切に感じているのですよね――
今の自分が美しいと思っているものを、3年前の自分は美しくないと思っていた、とか――
3年前の自分が美しいと思っていたものを、今の自分は美しくないと思っている、とか――
こんなことを痛切に感じながら――
それでも、「美しい」の話をやめようとしない僕は――
もしかすると――
どこかで大きく考え違いをしているのかもしれません。
それでも――
やはり、「美しい」の話をどうしてもしたいのですよね。
僕の主観に多様性や刹那性があるにしても――
美しいものを美しいと認識したり、その認識を求めたがったりする僕の主観の性質には、何ら偽りがないと感じるからです。
事実、僕自身――
いつまでも「美しい」を追い求めていたいと思いますからね――
たとえ、他の誰かにわかってもらえなかったり、あすの自分にわかってもらえなかったりしても――