マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

他者の意志が自然では困る

 脳はヒトの体の一部であり、ヒトの体は自然の一部であるから――
 例えば――
 僕にとって、あなたの意志は自然であり、あなたにとって、僕の意志は自然である――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 つまり、

 ――他者の意志は自然である。

 ということです。

 ……

 ……

 この考え方を突き詰めていくと――
 厄介な問題に出くわします。

 どういう問題かというと、

 ――他者の意志が自然であるなら、犯罪者の罪を裁けぬではないか。自然の事象を裁けぬのと同じだ。

 という問題――法の問題――です。 

 例えば――
 AさんがBさんを殺したとします。

 常識的には――
 Aさんは殺人罪で裁かれるはずですが――

 Aさん以外の人たちにとっては、Aさんの意志は自然なので――
 Bさんは自然災害で亡くなったに等しいと、みなされる――
 ということです。

 この理屈が罷(まか)りとおるなら――
 世の中は殺人であふれるかもしれません。

 それでは困るので――
 他者の意志を自然とみなす考え方は否定されます。

 ――他者の意志も、自我の意志と同様に、自然ではない。

 と、みなさざるをえないのです。

 そして――
 罪を問うものは、罪を問われる者に対し、こういいます。

 ――私なら、あなたが罪を犯した際の状況に置かれても、罪を犯さない。きちんと自分の意志を及ぼし、罪を犯さぬように自分を制する。あなたは、それを怠ったのだ。

 と――

 先月5日の『道草日記』でも触れた、

 ――間主観性

 の原理に基づく主張です。

 この主張を――
 僕は、

 ――方便の一種

 と思っています。

 ――他者の意志は、本来は自然とみなすべきなのだが、それでは世の中が治まらぬので、あえて自然とはみなさぬ。

 という意味での方便です。

 喩えるならば――
 河川を強固な堤防で挟んでいるような状況です。

 河川は――
 もちろん自然ですね。

 が――
 そのままでは、河川は氾濫を繰り返すので――
 護岸工事を十分に施し、あたかも用水路であるかのように設(しつら)えます。

 この「護岸工事」に相当するのが――
 間主観性の原理の導入や罪を問う法規の制定などです。

 ……

 ……

 ここで看過しえないのは――

 他者の意志を自然とみなすかどうかは――
 強固な堤防で挟まれた河川を自然とみなすかどうかに似ている――
 ということです。

 “他者の意志”については――
 先ほどの“法の問題”が生じないようにするために――
 これを自然とみなさざるをえません。

 が――
 “強固な堤防で挟まれた河川”については――
 そのような問題が今のところは生じそうにないので――
 素直に自然とみなしているにすぎません。