マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」

 ――強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ。

 という言葉があります。

 ドイツ人のサッカー指導者・ベッケンバウアーさんが――
 1974年のワールド・カップ西ドイツ大会に、ドイツ代表チームの主将として出場し、優勝した時の言葉として伝えられています。

 原語は、ドイツ語で、

 ――Eine starke Sache gewinnt nicht. Die Sache, die gewann, ist stark.

 とされています。

 この言葉を初めて耳にした時、
(それは、そうだろう)
 と思いました。

 が――
 この言葉――
 案外、評判が悪いのですよね。

 ――強弁ないし詭弁だ。

 とか、

 ――「勝てば官軍」といっているに過ぎない。

 といわれることがあります。

 なかには、

 ――こんな強引な発言を、かのベッケンバウアーがするはずがない。

 と疑う人もいます。

 そうした評判を踏まえ――
 あらためて「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」を読み返すと――

(たしかに「強引」ともとれる言葉だな)
 と感じます。

 この言葉は、少なくとも2通りに解釈できます。

 一つは、

 ――強いとみなされている者が勝つとは限らない。勝った者が強かったとみなされているにすぎない。

 という解釈――
 もう一つは、

 ――強かったという理由で勝った者はいない。勝ったという理由で強かったとみなされているにすぎない。

 という解釈です。

 1つめの解釈は、

 ――強いか否かは主観的な評価であり、勝敗という客観的な事実を否定しうる真理ではない。

 という点に主眼があり――
 2つめの解釈は、

 ――強いか否かは勝敗によってのみ判断すべきであり、勝敗によらずに判断すべきではない。

 という点に主眼があります。

 1つめの解釈は、主観・客観の区別は簡単ではないとする哲学の立場に配慮したもので、そんなに無理があるとは思えませんが――
 2つめの解釈には、主観の意義を全否定しているようなところがあり、けっこうな無理があるといえます。

 というのは――
 強いか否かの主観的な評価に全く意義を認めないとすると――
 例えば、

 ――あのチームは強い。

 と評する代わりに、

 ――あのチームは、どんなチームと試合をしても、常に勝ちそうだ。

 などと評さなければならず――
 ちょっと窮屈なのですよね。

 さらに深刻なのが、

 ――番狂わせ

 の概念が成立しなくなるという点でしょう。

 勝ちそうなチームが勝ちそうにないチームに敗れることを「番狂わせ」といいますが――

 強いか否かの主観的な評価に全く意義を認めず、勝敗という客観的な事実のみに依るのだとすると――
 勝ちそうなチームが勝ちそうにないチームに敗れた場合には、その瞬間、勝ちそうなチームが勝ちそうにないチームとなり、勝ちそうにないチームが勝ちそうなチームとなる――
 といった面倒な主張を封じ込めるのが難しくなります。

 この主張は――
 例えば、コイン・トスの前後で、場合によっては、コインの表を裏とみなし、裏を表とみなす――
 といった煩雑な手続きを設定することに通じるので、
(なんのこっちゃ?)
 という話になってしまう――

 勝敗という客観的な事実とは別に、強いか否かの主観的な評価にも意義を認めるほうが――
 はるかに無理が少ないのです。

     *

 ちなみに、

 ――強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ。
    (Eine starke Sache gewinnt nicht. Die Sache, die gewann, ist stark.)

 という言葉は――
 実際には、ベッケンバウアーさんの言葉ではないとの見解があるそうです。

 ベッケンバウアーさんが残した言葉は、

 ――ヨハンのほうが良い選手であった。しかし、私が世界王者だ。
    (Johan war der bessere Spieler, aber ich bin Weltmeister.)

 である、と――

「ヨハン」というのは――
 1974年のワールド・カップ西ドイツ大会で準優勝に終わったオランダ代表チームの中心選手クライフさんのファースト・ネームです。

 この大会――
 決勝戦前夜の下馬評は、オランダ代表チームが圧倒していました。

 当時のオランダ代表チームは、いわゆる全員で守って全員で攻める「トータル・フットボール」の組織力で――
 世界中のファンを虜にしていました。

 そうした中、開催国の威信を守って優勝してみせたのが――
 主将ベッケンバウアー率いる西ドイツ代表チームでした。

 前述の「ヨハンのほうが良い選手であった。しかし、私が世界王者だ」という言葉は、

 ――オランダこそが優勝チームにふさわしい。

 とのファン心理に一石を投じる目的があったと推測されています。

 そして――
 この言葉が極度に意訳され、「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」として伝わった、と――

 そうかもしれません。