マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

酷いようで実は面白い質問

 いかなる質問にも文脈があります。

 ここでいう「文脈」とは、

 ――その質問の文が属している文脈

 という狭い意味はもちろんのこと、

 ――その質問がなされた時・場所・目的・経緯

 も含んだ広い意味です。

 この文脈が――
 質問をする者とされる者とで共有されない限り――
 質問は、質問の体を成しません。

 文脈の共有が必要という点では――
 質問を傍で聞いている人たちも同じです。

 例えば――
 著名人の記者会見などで、

 ――あの質問は良かった。

 とか、

 ――あの質問は、まったくダメだ。

 と評価を下すには――
 それら質問の文脈を一つひとつ的確に把握しておく必要があります。

 が――
 これは非常に難しい――

 誤解を恐れずにいえば――
 傍で聞いているだけの人たちには、とうてい無理なのです。

 よって――
 記者会見の席などで、世間から高く評価される質問をしたいと思うのなら――
 文脈の説明が質問の文にさりげなく込められているような質問をすればよいのですが――

 そういう質問を生み出すのは――
 そう簡単ではありません。

 文脈の説明を込めようとすると――
 どうしても長い質問になるからです。

 長い質問は、一般には嫌われます。

 よって――
 記者会見の席などでは――
 時折、文脈の説明をすっかり諦めた短い質問がなされます。

 そういう質問は――
 たいていは、

 ――なんて酷い質問なんだ!

 と断罪されるのですが――
 必ずしも全てが酷いわけではありません。

 なかには、面白い質問が混じっています。

 何が酷い質問で、何が面白い質問なのか――
 
 それは――
 質問の答えを聞けばわかります。

 なかなか他では聞けないような新鮮で充実した答えが返されている場合には――
 その質問は、酷いようで実は面白い質問であったといえます。

 ただし――

 その陰には、ちょっと簡単には期待できない類いの幸運が隠れていることを――
 僕らは決して忘れないほうがよいでしょう。

 文脈の説明が一切なかったにもかかわらず、質問をされた者が、その文脈をたまたま瞬時に把握できた――
 という幸運です。

 こうした幸運に依拠せざるを得ないという意味で――
 文脈の説明をすっかり諦めた短い質問というのは、

 ――邪道

 といえます。