マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

歌の主人公の性別と唄い手の性別とが逆転

 ――男性が書いた男歌を女性が唄うパターン

 ないし、

 ――女性が書いた女歌を男性が唄うパターン

 が、
(断然、面白い)
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ここでいう「男歌」「女歌」は――
 それぞれ、

 ――詞に描かれた主人公が男性の歌

 ――詞に描かれた主人公が女性の歌

 という意味ですが――

 この「男歌」や「女歌」――
 もう少し狭い意味で使われることが多いそうです。

 すなわち、

 ――詞に描かれた主人公が男性の歌で、かつ女性が唄う歌

 ――詞に描かれた主人公が女性の歌で、かつ男性が唄う歌

 という意味です。

 要するに――
 歌の主人公の性別と唄い手の性別とが逆転するときに限って、それぞれを「男歌」「女歌」と呼ぶ――
 ということですね。

 その意味では――
 男歌は常に女性によって唄われ――
 女歌は常に男性によって唄われる――
 ということになります。

 ……

 ……

 以下――

 きのうの『道草日記』に話を合わせるために――
 「男歌」「女歌」を狭い意味ではなく、広い意味で用います。

 ……

 ……

 僕は――
 男歌も女歌も――
 同性が書くに越したことはない――
 と考えています。

 異性が書くと――
 どうしても観念先行になってしまいがちだからです。

 きのうの『道草日記』で述べた通りです。

 が――

 唄うのは異性のほうが
(断然、面白い)
 と――
 僕は感じています。

 その理由が何なのか――
 自分でも、よくわからないのですが――

 一つは――
 異性が唄うことで、虚構性が格段に高まるから――
 ということでしょう。

 歌の虚構性を高く保つには――
 技術的に確かな歌唱の裏打ちが必要です。

 よって――
 唄い手は自分の技巧を存分に駆使することになる――

 それを――
 聴き手は心ゆくまで楽しめるのですね。

 技巧だけではありません。

 歌の虚構性を高く保つには――
 唄い手の逞しい想像力も必要です。

 女性の唄い手が、男の情念をいかに想像し、表現するか――
 男性の唄い手が、女の情念をいかに想像し、表現するか――
 そこも、重要な聴きどころとなります。

 ですから――
 異性が男歌や女歌を唄うことで、面白くならないわけがないのですが――
 
 とはいえ――

 いま挙げたような理由は――
 さほど本質的とは思えません。

 より本質的なのは――
 あくまでも――
 歌の主人公と唄い手との間で起こる性の倒錯です。

 この倒錯こそを――
 僕は、
(断然、面白い)
 と感じているはずなのですが――

 では――
 なぜ、その倒錯を「断然、面白い」と感じているかについては――

 あいかわらず、よくわからないのですね。

 ……

 ……

 なんでなんでしょう?

 ホント、よくわからない――

 ……

 ……

 ちなみに――

 一つだけ白状をしておくと――

 僕は――
 男性が唄う女歌よりは――
 女性が唄う男歌のほうが――

 ずっと好きです。