マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ハンニバル・バルカの相手役(4)

 ――ハンニバルは、母国カルタゴの防衛に際し、ローマ軍を相手に自分が演じた包囲殲滅戦を、今度はローマ軍に演じられて大敗を喫した。

 といった主旨のことを――
 ちょうど1週間前の『道草日記』で述べました。

 その大敗を喫した相手こそが――
 ほかならぬ大スキピオ――3日前から『道草日記』で触れてきた“ハンニバルバルカの相手役”です。

 カンナエの戦いでハンニバルの卓越した戦術眼によって敗走を強いられた若干二十歳の大スキピオは――
 その14年後に起こったザマの戦いで、四十路半ばのハンニバルを敗走させたのです。

 歴史の巡りあわせというのは――
 ときに人為の物語を超越します。

 ザマの戦いで軍の主力を失ったカルタゴは――
 大スキピオに恭順の意を表します。

 大スキピオは、これを許し――
 理性的な処置を施します。

 ハンニバルの行方を血眼になって探すようなことはせず――
 むしろ、積極的に彼を赦し、戦後のカルタゴでの復権を助けたようです。

 おそらくは――
 ローマとカルタゴとの共存共栄を望んだがゆえでしょう。
 
 大スキピオがローマに凱旋すると――
 救国の英雄として、国内の賞賛を一身に浴びました。

 大スキピオの異称「スキピオ・アフリカヌス」は――
 このときに授かった尊称です。

 一方――
 ハンニバルは――
 今度は母国カルタゴで政治家として辣腕をふるい、敗戦後の復興を主導します。

 が――
 強権的な政治改革が恨みを買って失脚――
 ほどなくカルタゴを追われました。

 このハンニバルの2度目の挫折を――
 大スキピオは、いかに感じたでしょうか。

 ――なんと愚かなカルタゴよ。

 と嘲ったのではないか、と――
 僕は思っています。

 ――ハンニバルの統べるカルタゴがゆえに、わだかまりなく赦せたものを――

 と――

 少なくとも――
 ハンニバルに同情的であったことは、間違いないでしょう。

 このころから――
 二人の人生は、軌を一にして、下り坂となります。

 大スキピオ自身も――
 後年、自国の政敵からスキャンダルを告発されて失脚――
 ローマを去ります。

 そして――
 南イタリアに隠棲し――
 そこで生涯を閉じるのです。

 死を前にして、

 ――なんと愚かな我が祖国よ。

 と嘲ったと伝えられます。

 ――これでは、カルタゴの愚かを笑えぬではないか。

 との嘆であったかもしれません。

 同じころ――
 ハンニバルも、度重なる亡命を経て、母国カルタゴから遠く離れた異国の地で自死に至ります。

 ザマの戦いから約20年――カンナエの戦いからは30年以上が経っていました。

 ……

 ……

 ところで――

 きのうの『道草日記』の冒頭――
 僕は、

 ――ハンニバル大スキピオとは2回も会っている。

 と述べました。

 実は――
 ある歴史書が、

 ――ハンニバル大スキピオとは、ザマの戦いの数年後に、再び会談をしている。

 と伝えているのだそうです。

 信憑性は今一つです。
 その歴史書は、ザマの戦いの後、200年近くが経ってから執筆されています。

 とはいえ――
 その歴史書が伝えるところは、きわめて印象的です。

 ザマの戦いの数年後、現在のトルコ西部へ逃れていたハンニバルは――
 同地をローマの使節として訪れていた大スキピオの訪問を受けました。

 この2回目の会談で――

 ――史上最高の戦術指揮官は誰か。

 と、ハンニバルに問います。

 ハンニバルは――
 1番目にアレクサンドロス大王の名を挙げました。

 紀元前4世紀――
 マケドニアから身を起こしてギリシャ、ペルシアを立て続けに制圧したアレクサンドロス3世のことです。

 次いで――
 そのアレクサンドロス3世の戦術を継承したと目されていたギリシャマケドニアの王ピュロスの名を2番目に挙げました。

 そして、最後に――
 自身の名を挙げました。

 それを受け――
 大スキピオが訊ねます。

 ――もし、ザマの戦いで、あなたが勝っていたら?

 ハンニバルは応じました。

 ――私が史上最高の戦術指揮官だったろう。

 ……

 ……

 ちょっと話ができすぎているので――
 後世の創作ではないか、と――
 僕は思うのですが――

 ……

 ……

 もし――
 そうでなかったとしたら――

 二人は――
 このやりとりを心地よく笑って締めたのではないか、と――
 僕は感じています。

 深い敬愛のこもった大スキピオの社交辞令に――
 ハンニバルが屈託なく応じてみせた結果ではなかったか、と――
 僕は思うのです。