マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人間を2つに分ける(9)

 人間を心と体との2つに分ける話で――
 必ず思い浮かぶのが、

 ――健全な精神は健全な肉体に宿る。

 の慣用句です。

 僕が子どもであった1980年代は――
 学校の偉い先生などが、運動会の挨拶などで、引用していました。

 今日では――
 この慣用句は誤用であることが広く知られています。

 本来は――
 古代ローマの風刺詩人ユウェナリスが――
 自身の作中で、

 ――健全な精神が健全な肉体に宿ればなぁ。

 と嘆いたことが始まりでした。

 つまり、

 ――健全な肉体に健全な精神が宿ることは期待しにくい。

 というのが――
 当初の趣旨であったのです。

 正反対の意味であったのですね。

 それが――
 いつの間にか、

 ――肉体を鍛えれば、精神も鍛えられるに違いない。

 との考え方に組み込まれ――

 一説には――
 この国では、明治以降、いわゆる富国強兵の掛け声のもとに――

 しだいに誤用だけが広まっていったようです。

 ……

 ……

 きのうの『道草日記』で――

 物と事との枠組みでみたときに――
 人間を心と体とに分ける仕方は、心を不当に重視しているようにみえる――
 と述べました。

 心は、“人間に関わる事”のごく一部分であり――
 “人間に関わる物”の全部と“人間に関わる事”の大部分とが、体であるからだ――
 というのが――
 その理由です。

 この考え方によれば――
 たしかに、健やかな体には健やかな心が宿りそうなものです。

 何しろ――
 心と体とでは――
 体の占める割合が圧倒的に巨大であり、心の占める割合は極めて些少である――
 というのですから――

 体が健やかなら――
 それにつられて、心も健やかになりそうなものでしょう。

 ……

 ……

 1980年代に――
 学校の運動会の挨拶で、

 ――「健全な精神は健全な肉体に宿る」といいます。皆さんも、ぜひ、これを機に……。

 などと声高に述べていた人たちの不明は――
 つい糾弾したくなりますが――

 その背景まで――
 しっかりと吟味し始めたなら――

(そう簡単ではない)
 と思うのです。