マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「自然に親しむ」とは「○○を疎む」ということ

 現代人は――
 ふつうに生活をしていると――
 ほぼ「必ず」といってよいほどに、

 ――自然

 を忘れます。

 ――不自然

 で身の回りを固めてしまう――

 もちろん――
 実際に自分の身の回りを不自然だけで固めることなど、とうてい不可能なのですが――

 それでも――
 不自然で固めることができている、と――
 つい錯覚をしてしまうのです。

 例えば――
 現代人の生活では――
 朝、起きてから夜、寝るまでの間、だいたいスケジュールが決まっているものです。

 そのスケジュールの通りに生活をすることが――
 ふつうです。

 もし、何か不測の事態が起こり、スケジュールから逸脱するようだと――
 苛立ったりする――

 スケジュールの通りに生活をするということは――
 自分の日常動作の一つひとつに恣意を及ぼしていく、ということです。

 それが巧くいっていれば――
 当然のことながら――
 自分の身の回りを不自然で固めることができている、と――
 つい錯覚をしやすくなります。

 そういう錯覚があるからこそ――
 何か不測の事態が起こったときには――
 つい現代人は苛立ったりするのですね。

 ……

 ……

 そんな錯覚から目を覚ますには、どうしたらよいのでしょうか。

 ……

 ……

 ひたすら自然に囲まれるしかありません。

 自然のド真ん中に入っていって――
 むき出しの自然に触れる――

 そして――
 自分の恣意が自分の身の回りのごく近くにしか及ぼせないことを痛感する――

 例えば――
 原生林などに分け入ってみるのです。

 そうすれば――
 どんな人でも、最初は、自分の身の回りの原生植物などに必ずや恣意を及ぼそうとするでしょう――植物の枝などを払いのける、というような形で――

 そのうちに――
 自分の恣意が原生林にどんどん吸いとられていくような感覚を覚えるはずです。

 植物の枝は、払っても払っても覆いかぶさってくる――

 そのときに――
 人は悟ります。

 自分の身の回りに恣意を及ぼし続けられることが、いかに稀有なことか――

 ……

 ……

 この悟りを確認したくて――
 わざわざ原生林のようなところに分け入っていく人たちが、少なからずいます。

 例えば、

 ――探検家

 と呼ばれる人たちです。

 その気持ちは、

 ――自分の身の回りを不自然で固めることができている。

 という現代人の錯覚の強さを考えれば――
 よくわかります。

 この錯覚は――
 実に強固です。

 ……

 ……

 僕個人は――
 わざわざ原生林のようなところに分け入ってみようとは思いません。

 そういう“探検”が――
 僕は好きではありません。

 が――

 それでも――

 たまに、
(本当は、分け入ってみたほうがいいんだろうな)
 と思います。

 とくに――
 スケジュールの通りに生活ができなくて、つい苛立ってしまったことを――
 あとで振り返って反省するようなときには――

 ……

 ……

 ――自然

 を忘れないということは、

 ――自分の恣意の及ぶ限界を思い知る。

 ということです。

 着眼をするべきは、

 ――自然

 ではなく、

 ――恣意

 のほうです。

 ……

 ……

 極論を述べましょう。

 ――自然に親しむ。

 とは、

 ――恣意を疎(うと)む。

 ということに、ほかなりません。