マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(14)

 ――今川(いまがわ)義元(よしもと)は、外れにしかたどりつけないアミダくじを作ってしまったのではないか。

 ということを――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 もう少し具体的に述べましょう。

 ……

 ……

 今川義元は――
 今川氏の生き残りを考え、半ば苦し紛れに尾張(現在の愛知県西部)の制圧に乗り出したように思える――
 ということを――
 5日前の『道草日記』で述べましたが――

 本当は――
 そのようにしなくても十分に生き残れた可能性がありました。

 以下は――
 結果論――あとづけ論――であることを百も承知で述べるのですが――

 今川義元は、織田信長の器量をしっかりと見極め、同盟を結び――
 逆に、北の甲斐(現在の山梨県)の制圧に乗り出す――
 という道が残されていたはずなのです。

 後年の徳川家康が採った戦略です。

 この可能性を――
 今川義元は十分に吟味していたのか――

 ……

 ……

 僕は、

 ――吟味していなかった。

 と感じます。

 織田信長尾張を平定する前――
 とりわけ少年期に奇行が目立っていたようです。

 父親の葬儀の席で――
 位牌に抹香を投げつけたエピソードは有名ですよね。

 こうした奇行は――
 今川義元の耳にも届いていたでしょう。

 一方で――
 若き徳川家康から――
 それとは違った話もきいていたのではないかと推測されます。

 徳川家康は――
 幼少の頃、尾張で人質生活を送っていたことがあり――
 少年期の織田信長を間近で見知っていた可能性が高いのです。

 伝わってくる奇行の噂と――
 若き徳川家康からの話と――

 双方を天秤にかけることで、

 ――尾張と結び、まずは甲斐を切りとる。

 との選択肢を――
 少しでも意識できていたならば――

 今川義元の命運は――
 かなり違ったものになりえたでしょう。

 ……

 ……

 今川義元が作っていたアミダくじには――
 この“当たり”がありませんでした。

 “外れ”しかないアミダくじを――
 今川義元は――
 来る日も来る日も――
 作りつづけていたに違いないのです。