――社会とは何か。
や、
――社会科学とは何か。
といった議論を、2020年代以降、重視していくのがよいのではないか、と――
きのうの『道草日記』で述べました。
とりあえず、
――社会とは何か。
の問いに答えを与えておくと――
それは、
――「ヒト」という生物種に固有とみられる生態系
となるでしょう。
このように記述をした途端、議論は生物学的な色彩を帯びますが――
この問いや答えの真意は、社会科学を生物学の枠組みに入れようとする試みではありません。
そういう試みは、いわゆる社会生物学(行動生態学)として、すでに1970年代頃から現れています。
そして、それは、
(あまりうまくいっていない)
と、僕は思っています。
なぜ、うまくいっていないのか――
おそらく、「生物学」という枠組みに限界があるからです。
僕らが知っている生物は、たったの1種類――この地球上に繁殖している単一系統の生物――だけです。
たったの1種類しか知らないのに、それを学問の対象として扱おうとすれば――どうしても、“袋小路”的な制限を受けてしまいます。
もちろん、生物学を実践する上では、そうするしかないのは当然のことですが――それでは、社会科学全体が生物学の“袋小路”に入ってしまう――それは避けたい――
社会科学を生物学の枠組みに入れるのではなく、
――社会科学の枠組みに「ヒト」という生物種の属性を積極的に導入しよう。
というのが、僕の主張です。
そのような社会科学を、今、
――生物社会科学
と呼ぶことにします。
“生物社会科学”では、様々な社会における様々な現象を、「ヒト」という生物種の形態や機能といった観点、あるいは個体間の相互作用といった観点から記述していくことを目指します。
ここで留意したいことがあります。
この「ヒト」という生物種が、
――言葉を使う。
ということです。
このため、通常の社会科学では、言葉に基礎を置いて研究を進めます。
が、“生物社会科学”では、言葉は存在しないものとみなして研究を進めます。
もちろん、実際には言葉は存在するわけで、よって、例えば、言葉による個体間の相互作用を無視するわけではなくて、その相互作用を、言葉や言葉の意味とは独立に、記述する、ということです。
言葉は――少なくとも、その言葉の意味は――ヒトの心の内面の活動を反映しています。
“生物社会科学”では、ヒトの心の内面には、あえて焦点を当てないのです――ただ、ヒトの体の外面にのみ焦点を当てる――
よって、ごく簡単にいってしまうと、
――通常の社会科学から言葉を抜き取っていく。
ということです。
ヒトの個体間で交わされる言葉や言葉の意味はあえて記述せずに、その言葉による個体間の相互作用だけを記述する、ということです。
その記述には言葉を用いざるを得ないので、話は異様に複雑なのですが――少し砕けた喩え話に置き換えると、
――“生物社会科学”の実践者は、自分たちが地球外知的生命体になったつもりで、地球上のヒトの個体間の相互作用をつぶさに観察する。その際、ヒトが実際に交わしている言葉を自分たちの言葉に――地球外知的生命体の言葉に――翻訳することはしない。
ということです。