マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「ケレン味がある」「ケレン味がない」

 いわゆる芸事について、

 ――「ケレン味がある」は、ほぼ間違いなく誉め言葉である。

 ということを、4日前の『道草日記』で述べました。

 

 裏を返せば、

 ――「ケレン味がない」は、ほぼ間違いなく貶(けな)し言葉である。

 ということになります。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――ケレン味がない。

 という貶し言葉が嫌いです。

 

 (なに、いってるんだ?)

 と思います。

 

 きのうの『道草日記』で述べたように、

 ――ケレン味

 は多様性や趣向と不可分です。

 

 よって――

 

 もし――

 芸事について、

 ――ケレン味がない。

 というのであれば、

 ――そういう自分には、どんなケレン味の趣向があるのか。

 ということを明らかにしなければ――

 意味を成しません。

 

 が――

 それを明らかにした上で、

 ――ケレン味がない。

 と貶す人を――

 僕は、ほとんど知りません。

 

 まるでケレン味には普遍性や基準があるといわんばかりに、

 ――ケレン味がない。

 と貶すのです。

 

 ――ケレン味がない。

 と貶された芸事にも――

 実は、

 ――ケレン味

 は、あったかもしれません。

 

 ――ケレン味がない。

 と貶した者にはわからなかったケレン味が、あったのかもしれない――

 

 そんな懸念に思いもよせずに――

 ただ、

 ――あの人の芸にはケレン味がない。

 などといってのける者は、

 ――ケレン味

 について深く考えたことがないのでしょう。

 

 一方――

 

 ――ケレン味がある。

 という誉め言葉には――

 このような懸念は生じません。

 

 ――ケレン味がある。

 と誉めれば――

 そのケレン味の趣向が自分にあることを明らかにしたも同然だからです。

 

 むしろ、

 ――ケレン味には多様性や趣向があって……。

 などと、いちいち無粋な説明を挟む必要もなく――

 実に洗練をされた意思表明といえるでしょう。

 

 ……

 

 ……

 

 ――ケレン味がない。

 という貶し言葉は嫌いですが――

 

 ――ケレン味がある。

 という誉め言葉は好きです。