マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“全症根治”から“汎症根治”を経て“汎症受忍”へ

 ――自分たちの体を有機物から無機物に作り換える。

 というのは――

 結局は、

 ――不老不死

 の発想であり――

 それは――

 僕なりのいい方をすれば、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 の発想である――

 ということを、5月8日の『道草日記』や5月9日の『道草日記』で述べました。

 

 ――汎症根治

 の発想は、

 ――全症根治(ぜんしょうこんち)

 の発想を深めたものといえます。

 

 つまり、

 ――あらゆる病気の症状の原因が特定をされることで、それら症状の治療方法が確立をされる。

 という「全症根治」の発想は、

 ――あらゆる病気の症状は互いに根底で繋がっている。

 という「汎症」の洞察が前提に据えられることによって、

 ――あらゆる病気の症状の原因は、生体の在り方それ自体を見直すことで、根底から取り除くことができる。

 という「汎症根治」の発想に深化をした――

 ということです。

 

 が――

 その結果が、

 ――不老不死

 であり、

 ――自分たちの体を有機物から無機物に作り換えること

 であるのなら――

 もう少し再考の余地があるでしょう。

 

 ――自分たちの体を有機物から無機物に作り換える。

 と言葉で表すのは簡単ですが――

 それを実行に移すのは、おそらくは至難の業です。

 

 少なくとも――

 21世紀序盤の医学や自然科学、あるいは、医療や科学技術では――

 どうすれば自分たちの体を有機物から無機物に作り換えることができるのか――

 見当もつかないのです。

 

 見当もつかないようなことに拘泥をし続けるのは――

 建設的な思考とはいえません。

 

 では、どうするか――

 

 ……

 

 ……

 

 ――全症根治

 から、

 ――汎症根治

 へと発想を深めたことに満足をせず――

 さらなる発想を深めていくのがよいでしょう。

 

 ――汎症根治

 をさらに深めると、どうなるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 であると考えています。

 

 つまり、

 ――あらゆる病気の症状の原因を受け入れ、それら症状を耐え忍んでいくこと

 です。

 

 ……

 

 ……

 

 こう述べると、

 ――なんと平凡な発想か。

 と呆れる向きもあるでしょう。

 

 たしかに、

 ――汎症受忍

 は、その結論だけをみれば、きわめて平凡な発想です。

 

 が、

 ――全症根治

 から、

 ――汎症根治

 を経て、

 ――汎症受忍

 に至る経緯は、決して平凡ではありません。

 

 僕のいう、

 ――汎症受忍

 は、有機物の体を無機物の体に作り換える可能性も視野に入れた上での諦観です。