マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

単数の自我からなる社会の作り上げ方

 社会という生態にとっての、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 や、

 ――不衰不滅(ふすいふめつ)

 を成し遂げるには――

 複数の自我からなる社会を単数の自我からなる社会に作り換えればよい――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 それには、

 ――自我の統合

 が必要である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 が――

 

 ちょっと考えればわかるように――

 

 ――自我の統合

 を成し遂げなくても、

 ――単数の自我からなる社会を作り上げること

 は可能です。

 

 1つの自我が、他の全ての自我を消してしまえばよい――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 完全に消してしまえば――つまり、殺してしまえば――残った自我に不測の事態が起こった際に、社会という生態は滅びます。

 

 そのような危険をあえて冒す意味はありませんから――

 実際には、

 ――1つの自我以外の全ての自我の機能を停め、必要な際に、それらのうちの1つだけの機能を戻す。

 というようなことが考えられます。

 

 いずれにせよ、

 ――自我の統合

 などを成し遂げなくても、

 ――単数の自我からなる社会を作り上げること

 は可能です。

 

 が――

 こうした手法は用いられようがないのではないか、と――

 僕は考えています。

 

 ――1つの自我以外の全ての自我の機能を停める。

 というのは、究極の、

 ――権威主義

 といえます。

 

 一方――

 人の世の歴史を振り返ると――

 そこには、大まかに、

 ――権威主義から民主主義への流れ

 を見出すことができます。

 

 この“流れ”は、人が自分たちの体を有機物から無機物に作り換えた後でも、持続をするのではないか、と――

 僕は考えています。

 

 この“流れ”にこそ、人の世の本質がある――よって、この“流れ”は簡単には途絶えないであろう、と――

 

 ……

 

 ……

 

 よって――

 人の世において、

 ――1つの自我以外の全ての自我の機能を停める。

 ということは――

 遠い将来においても、

 (そう簡単には起こりそうにない)

 と、僕は思います。

 

 もし、起こったら――

 それは、たぶん、もはや、

 ――人の世

 ではない――

 つまり、

 ――ヒトの生態

 ではない――

 

 僕の希望的観測かもしれませんが――

 

 そう思います。

 

 ……

 

 ……

 

 よって――

 その社会が、人の社会である限り――

 あるいは、その生態が、ヒトの生態である限り――

 

 ――汎憂根絶

 や、

 ――不衰不滅

 を成し遂げるには、

 ――自我の統合

 が不可欠である、と――

 僕は思うのです。