社会という生態に、
――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)
ないし、
――不衰不滅(ふすいふめつ)
をもたらすには、
――自我の統合
が不可欠である――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
当然の質問として――
どうすれば、
――自我の統合
などが可能になるのか――
ということは、大いに気になるところです。
たとえ、人が自分たちの体を有機物から無機物に作り換えた後のこと――つまり、遠い将来のこと――であったとしても――
いったい、どうすれば、
――自我の統合
などが可能なのか――
……
……
もちろん――
この質問にきちんと答えるには、自我の機能が正確にわかっていなければならず――
それは、21世紀序盤の現代においては、まったくわかっていないに等しいことですから――
いま、この質問にきちんと答えることなどは、できるわけがないのですが――
それでも――
2019年12月31日の『道草日記』で述べた推量――
つまり、
――「自我」とは、“過去の感覚”の集積が脳や心の中に作り上げる何かである。
という推量――に基づけば――
――自我の統合
とは、
――“過去の感覚”の集積の共有
のことに他ならないのかもしれません。
もちろん――
この場合の「共有」とは「完全な共有」です。
つまり――
遠い将来、社会を構成する無機物の個体は、自身の脳――ないしは、脳に相当する部分――に内蔵をしている“過去の感覚”の集積が、他の全ての個体と完全に一致をしている――
ということです。
もう少し、わかりやすくいえば、
――すべての個体の記憶が共有をされている。
ということですね。
すべての個体の記憶が共有をされていれば――
すべての個体の意思は一致をみることでしょう。
つまり――
社会という生態は、たった1つの意思を抱くことになる――
そのような意思を、すべての個体の自我が、
――自分で抱いている意思である。
と思い込むことは――
いかにもありえそうなことです。
つまり、
――自我の統合
は、あくまでも、
――錯覚的
ということになります。
それでも十分でしょう。
――自我の統合
が、すべての個体によって錯覚をされていれば――
社会という生態に、
――汎憂根絶
や、
――不衰不滅
をもたらすことは十分に可能であろう、と――
僕は思います。