――ヒトらしい知性
とは、
――外向的な知性
に他ならない――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
ここでいう、
――外向的な知性
とは、
――興味や関心が生態の外部へ向けられやすい。
という意味です。
もちろん――
ヒトの興味や関心が生態の外部だけに向けられるわけではありません。
生態の内部にも向けられます。
心理学でいうところの、
――外向性
や、
――内向性
という観念は、人の性格の連続的な性質を指し――
例えば、「外向性だけ」とか「内向性だけ」とかいった性格は、想定をされません。
つまり――
どんなに外向性の強い人にも少しは内向性の要素があり、どんなに内向性の強い人にも少しは外向性の要素がある、と――
みなされるのです。
――ヒトらしい知性
は、
――外向的な知性
である、ということは――
決して、
――ヒトらしい知性
には、
――内向的な要素
がない、ということではありません。
もし、ヒトの知性が、
――内向的な要素
を全く含んでいいなければ――
人の社会は――つまり、ヒトの生態は――もっと単純で実効的であり、余剰や冗長の見出せない系になっていたでしょう。
そうなっていたら――
僕らの文明は、芸術や教養が存立・発展をするような余地のない文化によって下支えをされていたはずです。
実際には――
そうはなっていませんよね。
つまり、
――ヒトらしい知性
にも、
――内向的な要素
はある――
ということです。
ただ――
それを、いかにも、
――ヒトらしく
しているのは、
――外向的な要素
であって、
――内向的な要素
ではない――
ということです。
この主張は、
――芸術や教養の存立・発展
が、おそらくは僕らの文明に固有の事象ではない――
ということを示しています。
実際のところ――
きのうの『道草日記』で触れた、
――非ヒト型知的生命体
のなかには、
――芸術や教養の存立・発展
を成し遂げている種が、幾種もあるに違いない、と――
僕は思っています。
そうした“非ヒト型知的生命体”が――
この地球上に存在をしていたとしても、何ら不思議はない、と――
ただ僕らが気づけていないだけです。