――“神経単位(neuron)”の実態を明らかにするには“演算”よりも“配線”のほうが重要である。
との命題は、
――“神経単位”の実態を明らかにするには“神経単位を担う神経細胞の集合の活動”よりも“神経単位を担う神経細胞の集合の形成”のほうが重要である。
と書き換えたほうがよい、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
つまり、
――演算
とは、
――活動
であり、
――配線
とは、
――形成
である――
ということです。
電算機(computer)の演算は――
電算機のどこかで最初にスイッチが入ると――例えば、端末から命令が入力をされると――以後、基本的には全自動で、各々の素子の状態が変化をしていくだけです。
それら素子の状態の変化は、あらかじめ設けられた規則に従って――あるいは、あらかじめ定められた秩序の下で――順次、起こっていきます。
よって――
電算機の演算では、それら規則や秩序に、その本質があります。
もちろん――
それら規則や秩序は、電算機の設計者が用意をしたものです。
一方――
脳を含む神経系の“演算”も、電算機の演算と、おそらく大差はありません。
神経系のどこかで最初にスイッチが入ると――例えば、感覚器が外界の変化に反応をすると――以後、基本的には全自動で、各々の神経細胞の状態が変化をしていくだけのはずです。
それら神経細胞の状態の変化は、あらかじめ設けられた規則にしたがって――あるいは、あらかじめ定められた秩序の下で――順次、起こっていきます。
よって――
脳を含む神経系の“演算”であっても、その本質は規則や秩序にあると考えられます。
ただし――
電算機と違うのは――
それら規則や秩序は、誰か設計者が用意をしたものではなく――
脳を含む神経系が、限られた遺伝情報の下で、自然に獲得をしたものに違いない――
ということです。
その規則や秩序の自然な獲得のことを、
――形成
と、僕は呼びたいのです。
それが、
――配線
という言葉で喩えられる生命現象の実態であろう、と――
……
……
――“神経単位”の実態を明らかにするには“演算”よりも“配線”のほうが重要である。
というのは――
つまりは、
――“神経単位”の実態を明らかにするには、個々の神経細胞の状態の変化ではなく、それら変化を司る規則や秩序が自然に獲得をされる過程を明らかにする必要がある。
ということです。
このような意味での、
――形成
は――
実をいえば、他の言葉でもいい表すことができ――
例えば、
――生成
でも、
――発生
でも、
――発達
でもよいのです。
今の僕にとって、最も腑に落ちる言葉が、
――形成
である――
というだけのことです。
ひょっとする――
その“最も腑に落ちる言葉”は、この先、どんどん変わっていくかもしれません。