――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまでは攻撃をしない。
という“勇気”は、少なくとも軍事的には、“非合理的な勇気”ではあるものの――
逆に、軍事的な合理性を突き詰めていくと、外国への侵略の誹(そし)りを受けやすくなるという意味で、政治的な合理性が失われるのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
軍事は政治の一部ですから――
政治的な合理性を失ってまで軍事的な合理性を突き詰めていくのは、本末転倒といえます。
が――
それでも、
――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまでは攻撃をしない。
という“勇気”は、
――愚かである。
との主張は根強いようです。
(たしかに、そうだよなぁ)
と僕も思います。
が――
……
……
逆の“勇気”を考えてみましょう。
――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまでは攻撃をしない。
という“勇気”の逆――
つまり、
――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまえに攻撃をする。
という“勇気”です。
いいかえるなら、
――外国への侵略の誹りをあえて受ける。
という“勇気”です。
これは――
僕は、
――匹夫の勇
ではないかと思っています。
――匹夫
とは、
――平凡な男
くらいの意味です。
――匹夫の勇
とは、
――物事を深く考えないで血気に逸るだけの平凡な勇気
という意味です。
中国・戦国時代の思想家・孟子が残した言葉と考えられています。
遊説先で、ある好戦的な君主から、
「私は戦う勇気が好きだ」
といわれた際に、
「それは、平凡な男が誰か一人を相手にするときの小さな勇気です。君主は勇気を大きくしなければなりません」
と答えたそうです。
……
……
もちろん――
仮に、
――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまえに攻撃をする。
という“勇気”が、
――匹夫の勇
つまり、
――小さな勇気
であったとしても、
――外国の軍隊から攻撃を受けて実際に被害が出るまでは攻撃をしない。
という“勇気”が、
――君主の勇気
つまり、
――大きな勇気
である保証はありません。
が――
何か、
――勇気
について語るときに――
それが、
――匹夫の勇
ではないかと自問をすることは、とても大切であるように――
僕には思えます。