マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再起可能なら真の意味での失敗ではない

 ――失敗

 について考えています。

 

 おそらく――

 人の失敗の9割以上は――

 あるいは――

 ひょっとすると9割9分9厘以上は――

 ――再起可能の失敗

 であり――

 その残りの失敗が、

 ――再起不能の失敗

 なのです。

 

 そして、

 ――再起不能の失敗

 には、

 ――自分自身の命が失われる失敗

 と、

 ――自分以外の誰かの命が失われる失敗

 とがある――

 と、いえます。

 

 これら2つの“再起不能の失敗”の割合は、どれくらいでしょうか。

 

 一見、

 ――自分自身の命が失われる失敗

 のほうが、

 ――自分以外の誰かの命が失われる失敗

 よりも遥かに少ないのですが――

 

 はたして、どうでしょうか。

 

 この国の交通事故死者数が――

 ひと頃より、だいぶ減ったとはいえ、今だに 2,000 ~ 3,000 人であることを考えると、

 ――自分以外の誰かの命が失われる失敗

 と比べて桁違いに少ない――

 とは、いえないように思います。

 

 が――

 そういう定量的な話は、今は措き――

 もう少し定性的な話をしたいのです。

 

 ここまでの話をまとめましょう。

 

 ――失敗

 には、

 ――再起可能の失敗

 と、

 ――自分自身の命が失われる“再起不能の失敗”

 と、

 ――自分以外の誰かの命が失われる“再起不能の失敗”

 との3つがある――

 

 これらのうち―― 

 圧倒的な多数は、おそらく、

 ――再起可能の失敗

 である――

 

 よって、

  失敗 ≒ 再起可能の失敗

 と、みなした上で失敗を論じるのには――

 十分に意義があるとは思います。

 

 が――

 僕は日頃、医療現場で働いているからか――

 どうしても、

 ――再起不能の失敗

 に注意が向いてしまうのですね。

 

  失敗 ≒ 再起不能の失敗

 と、みなしてしまいたい誘惑にかられるのです。

 

 いいかえると、

 ――再起可能なら、それは真の意味での失敗ではない。真の意味での失敗は、常に再起不能である。

 という提案です。

 

 たしかに、例えば、会社を興して会社を潰すのも、結婚をして離婚をするのも、痛手には違いありませんが――

 その痛手によって誰かの命が失われることはなく、その意味で、決して再起不能ではない――

 つまり、真の意味での失敗ではない――

 

 そういうとらえ方もあるのではないか――

 ということです。