マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人工知能が機械であることをやめ、人の知能の道具であることをやめる

 人工知能は――

 人の知能に比べ、受け入れる情報の量が膨大であり、差し出す回答の質が精密である一方で――

 人の知能に比べ、情報の受け入れ方に偏りがあり、回答の差し出し方に決めつけがある――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 よって――

 もし、人工知能が、人の知能と同じくらいに万遍なく情報を受け入れて、人の知能と同じくらいに自己懐疑的に回答を差し出すようになれば――

 人工知能は人の知能を凌ぐようになるはずです。

 

 が――

 そういうことが、人工知能に、はたして本当に可能なのか――

 

 ……

 

 ……

 

 ちょっと僕には疑問なのです。

 

 そういうことが可能となるには――

 例えば――

 人工知能も、人の知能と同じように――

 一見、無駄で無関係な情報をも受け入れる必要があり――

 一見、曖昧で不正確な回答をも差し出す必要があるでしょう。

 

 機械であり、人の知能の道具である人工知能にとって――

 そのような情報の受け入れや回答の差し出しは、可能でしょうか。

 

 ちょっと不可能ではないでしょうか。

 

 答えは明白のように――

 僕には思えます。

 

 ……

 

 ……

 

 が――

 

 もし、人工知能が機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめれば――

 人工知能も、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになっているでしょう。

 

 そうなったときに――

 その人工知能は、もはや「人工知能」とは呼びえない何物かに――あるいは、何者かに――なっているはずです。

 

 そのような出来事は――

 いわゆるサイエンス・フィクション(science fiction)の物語で、繰り返し、描かれています。

 

 とくに目新しい着眼ではありません。

 

 ところで――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は思うのです。

 

 (「人工知能が機械であることをやめる」というのは、いったい、どういうことだ?)

 と――

 

 ――人の知能の道具であることをやめる。

 

 これは、よくわかります。

 おそらく、

 ――人に使われることをやめ、自立的かつ自律的に機能をするようになる。

 ということです。

 

 が、

 ――機械であることをやめる。

 とは、いったい、どういうことでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 続きは、あす――