マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

算数・数学が“脳の窓”なら、音楽や体育は何か

 ――算数・数学

 によって――

 人は、物事の、

 ――解明(かいめい)

 をしている――

 と、きのう、のべました。

 

 一方で――

 12月2日以後、ぼくは――

 脳(のう)にとって、

 ――算数・数学

 は、

 ――窓(まど)

 である――

 と、くりかえし、のべています。

 

 要するに、

 ――解明をする。

 ということは、

 ――“脳の窓”を開(あ)ける。

 ということに、ほかなりません。

 

 国語や英語などの言語では――

 この、

 ――解明をする。

 ということができません。

 

 ――説明をする。

 ということしか、できない――

 

 よって――

 脳にとって、

 ――国語や英語

 は、

 ――照明

 である――

 と、12月13日に、のべたのです。

 

 ――説明をする。

 というのは、

 ――“脳の照明”を当てる。

 ということでしたね。

 

 ……

 

 ……

 

 このように考えていくと、

 ――算数・数学

 というのは――

 実に、ふしぎな営(いとな)みです。

 

 さらにいえば――

 実は、

 ――解明

 という営みこそが、ふしぎである――

 と、いえます。

 

 なぜ人は、

 ――算数・数学

 が使えるのか――

 

 あるいは――

 なぜ人は、

 ――解明

 ができるのか――

 

 もっといえば――

 

 なぜ人は、

 ――脳

 に、

 ――窓

 をうがつことができたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 ――うがつ

 というのは、

 ――穴(あな)などを開ける。

 という意味です。

 

 漢字で書くと、

 ――穿(うが)つ

 となります。

 

 ……

 

 ……

 

 実は――

 脳を穿つだけでしたら――

 

 ――算数・数学

 でなくても、できるのです。

 

 例えば、

 ――音楽

 とか、

 ――体育

 とかでも、できる――

 

 ……

 

 ……

 

 ぼくは、

 ――音楽

 は、

 ――脳の伝音装置(でんおんそうち)

 であると考えています。

 

 また、

 ――体育

 は、

 ――脳の通風装置(つうふうそうち)

 であると考えています。

 

 これら“装置”は、

 ――脳の窓

 と何が違(ちが)うのか――

 

 ……

 

 ……

 

 つづきは、あす――

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』