マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

精神の意義(1)

 ――神経の装置

 を、

 ――神経系

 と、みなし、

 ――中枢神経系

 と、

 ――末梢神経系

 とに分ける考え方では――

 

 おそらく――

 精神の営みには迫れない。

 

 それよりは――

 

 ――神経の装置

 を、

 ――求心性装置

 と、

 ――遠心性装置

 とに分ける考え方のほうが――

 いくらか有望である。

 

 ――神経の求心性装置

 は、

 ――身体の外部の情報

 を受け入れ――

 その“情報”に何らかの処理を施すことで、

 ――身体の内部の情報

 を生み出す。

 

 いわゆる、

 ――知覚

 に相当をする。

 

 一方、

 ――神経の遠心性装置

 は、その“求心性装置”が生み出した、

 ――身体の内部の情報

 を、

 ――身体の動作

 として身体に表させる。

 

 いわゆる、

 ――運動

 に相当をする。

 

 つまり、

 ――身体の外部の情報

 を、

 ――身体の内部の情報

 に作り換えることこそが――

 精神の営みの本態ではないか――

 ということである。

 

 では――

 この、

 ――作り換え

 には、どのような意義を見出せるのか。

 

 ……

 

 ……

 

 難問である。

 

 その問いは――

 要するに、

 ――精神の意義

 とは何か――

 と同じである。

 

 『随に――』