――精神の意義
は、
――“身体の外部の情報”を“身体の内部の情報”に作り換える。
ということにあり――
それは――
もう少し精確にいえば――
――“身体の外部の部分情報”を受け入れ、“身体の内部の全体情報”を書き換えた上で、そのことを基に“身体の内部の部分情報”を生み出し、それを送り出す。
ということである――
といえる。
あえて誤解を恐れずにいえば――
――“身体の内部の全体情報”の書き換え
にこそ、
――精神の意義
は、あるのではないか。
……
……
ここでいう、
――身体の内部の全体情報
とは――
身体から様々な方式で発信をされうる多様な情報のことであるが――
そのことに、この“全体情報”の神髄があるのではない。
――身体の内部の全体情報
の神髄は、
――身体が誕生をしてから今日まで持続的に受け入れてきた“身体の外部の部分情報”の全てが反映をされていること
にある。
この“全体情報”こそが――
精神に何らかの主体性を与えているのではないか。
もう少し踏み込んで述べれば――
――身体の内部の全体情報
こそが、
――自我
を象っている――
あるいは――
少なくとも――
――自我
と相応に密接な関連をもっている――
そういうことではないか。
……
……
むろん――
真偽はわからぬ。
が――
やはり――
――自我
は、
――精神の意義
の中核にある――
と、つい考えたくなる。
『随に――』