マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

新奇の作風の模索

 ――人は、自分がみたくない物語を、つくれるだろうか?

 という問題について考えています。

 物語とは、つくるものではなく、みせるものだと、僕は思っています。
 だから、上記の問題は、

 ――人は、自分がみたくない物語を、みせられるだろうか?

 と、言い換えてもいい。

(無理でしょう)
 というのが、いまの僕の結論です。

 物語をみせるには、その物語を、一旦、自分でみないといけません。

 自分がみる過程でブレーキがかかるのですから、当然、その次の過程(みせる過程)には進みにくい。

 だから、

 ――人は、自分がみたくない物語は、みせられない。

 と、僕は考えます。

 が――
 本当はみたいのに、みたくないと思い込んでいる、というケースも、あるかもしれません。
 その場合は、みかけ上、

 ――みたくない物語もみせられる。

 ということになります。

 この思い込みに、いかに気が付くかが、新境地開拓への呼び水となるのでしょう。
 作家は、常に自分を疑うことで、新奇の作風を模索しているに違いありません。

 そうした思い込みが、僕にもないかどうかを、現在、詳細にチェックしているところです。