マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

審判

 最近の『道草日記』は野球の話ばかりです。

 今日も野球の話――

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 ワールド・ベースボール・クラシックで誤審騒ぎが起こっています。
 ボブ・デービッドソン審判員が、アメリカ側に有利なジャッジを2度も下したとされる騒ぎです。
 報道によると、明白なミス・ジャッジで、アメリカを意図的に助けようとしたとしか思えない状況です。

 審判員は人間です。機械ではない。
 ときには偏ったジャッジを故意に下すこともあるでしょう。

 昔、元審判員の人が、

 ――試合の流れによっては判定基準を変える。

 との主旨の発言をし、問題になったことがありました。
 基準を変えるといっても、本塁打を2塁打に変えるのではなく――
 例えば、負けているチームに諦観が漂い始めたときに、少しだけストライク・ゾーンを広くとるとか――試合展開を左右しうるところでは、ボークやハーフ・スイングの判定を少しだけ甘くみるとか――そういうことです。
 選手の心の動きをよみ、ときに厳しく、ときに甘く――その目的は試合を常に生きた状態に保つためです。

 僕は、これを正しいと思うのです。
 もちろん機械的なジャッジに徹さなくてならないときはあります。が、徹したら不都合になるときもある。

 人間に審判を託す以上、審判員にある程度の自由裁量を与えるほうが、理にかなっている気がします。

 根底には、人間への信頼があります。
 当事者だけでは試合はできません。どうしても中立の人がいる――が、その人も偏見から完全に自由ではありえない――それでも審判をお願いするのです。

 当事者はお願いをする身ですから、明白なミス・ジャッジをされても、受け入れる――
(あなたの判断に従いましょう)
 ということです。

 したがって――
 当事者から人間として信頼されていない審判員は無用の長物となります。

 試合前に選手が審判員を審査するような仕組みがあったらいいのではないでしょうか。
 審判員が選手を一方的に裁くという図式が不健全なのだろうと思います。