マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

精神年齢の見解は一致せぬ

 ある人をみて、

 ――あの人は大人だ。

 とか、

 ――あの人は子供だ。

 とかいう。
 周囲の見解は、だいたいは一致する。
 だから、いわゆる精神年齢というものが、少なくとも見かけ上は、存在しているといってよい。

 が、驚くべきことに――
 ときに一致せぬことがある。同じ人をみているのに、見解の一致せぬことがある。

 なぜ、こんなことになるか。

     *

 一つは、個別性の問題だ。

 精神年齢の重ね方は人によって異なる。
 速い人がいれば、遅い人もいる。いつも同じペースの人がいれば、緩急の激しい人もいる。

 また、精神には広がりがある。
 ある部分は成熟しており、他のある部分は未熟にすぎる、ということが十分にある。あるいは、ある部分は年老いていて、他のある部分は若さを保っている、ということも十分にある。

 精神の個別性を見誤ると、精神年齢を誤って弾き出す。

 もう一つは主観性の問題だ。

 当たり前だが――
 精神年齢は主観的なものである。みる人によって異なる。
 例えば、ある人がみたら20歳、別の人がみたら15歳、さらに別の人がみたら30歳――ということはありうる。

 一方、精神年齢には至適範囲というものがある。
 これも当たり前だが――
 精神年齢は暦年齢より高ければよい、というわけではない。
 10代、20代では高い方がよいかもしれぬが、70代、80代では低い方がよいかもしれぬ。
 つまり、至適範囲の下限を下回っているときは老成するべきで、上限を上回っているときは退行するほうがよい。

 至適範囲はクセものだ。
 精神年齢が主観的なら、むろん、この至適範囲も主観的である。むしろ、精神年齢よりも遥かに主観的かもしれぬ。
 例えば、20歳から30歳を至適と考える人がいれば、50歳から60歳と至適考える人もいる。

 ある人の精神年齢について――
 しばしば、周囲の人々の見解が一致しないのは、そうしたことによる。

 事情がわかっていれば、何でもない。
 ある人の精神年齢について、あれこれと議論するほど、不毛なことはないと、僕は思っている。