過去の映像や写真をみていると、たまらない気持ちになる。
「時の流れ」という名の刃を、喉元に突きつけられた気分になる。
過去の映像や写真は、できれば目の届かぬところにしまっておきたい。
が、まあ――
そんなことをいっても始まらぬ。
人は所詮、永遠の今を生きることは叶わぬ。
生きて老い、やがては死んでいく――そういう存在だ。
時の流れに恨み言をいったところで、天に唾するようなものである。
そうした境地で、過去の映像や写真に接すると――
不思議な幻惑にとらわれる。
それら過去の映像や写真の向こう側に広がっている世界が、別世界のように感じられるのだ。
今の僕らの世界に並行して存在している別世界である。
こうした性質は、映像や写真に固有のように思う。
過去の文章や絵画は、それほどでもないのではないか。
SFなどで過去を旅する物語は散々に描かれてきているが――
そうした物語の端緒は、過去の映像や写真が提示しているといってよいかもしれぬ。
極論すれば――
もし、この世から過去の映像や写真の全てが消えれば、過去を旅する物語は激減するような気がしてならぬ、ということである。
過去の文章や絵画では、過去を旅する物語の端緒にはなりにくいだろう。
――過去はどこに存在するのか?
という問いがある。
手垢のついた問いである。
これに対し、
――過去は、どこにも存在しない。存在するにせよ、その場所は人々の追憶の中である。
というのが模範解答ということになっている。
そんな答えは、どうでもよい。
過去は別世界かもしれぬ。
そう思わせる幻惑の根源を大切にしたい。