マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「春眠、暁を覚えず」の深読み(4)

 盛唐の詩人・孟浩然の『春暁』で、

 ――花、落つることを知る多少

 と歌われる「花」は――
 いわゆる『花木蘭伝説』に代表される“戦う女性”を暗示しているのではないか――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 もちろん――
 僕は、中国の古典については完全に素人で――
 孟浩然の詩について何か特別な知識や理解があるわけではありませんから――

 以上の話も以下の話も――
 ただの与太話と大差はありません。

 それでも――

 孟浩然の『春暁』について、

 ――なぜ、このような詩が作られたのか。

 という問いは――
 それなりに重要であるように思われます。

 孟浩然の『春暁』は、いわゆる自然詩に分類されます。

 ここでいう「自然詩」とは、

 ――自然を主題として作られた詩

 くらいの意味です。

 この自然詩を――
 僕らは「自然を主題として作られた詩」と理解するだけで本当によいのでしょうか。

 もちろん――
 表向きは「自然を主題として……」でよいのですよ――実際に、そのように解釈しうる作りになっていますから――

 が、
(本当に、それだけなのか)
 と――
 僕は思わずにはいられないのですね。

 たしかに、自然は美しい――
 その美しい自然を詩に描きたい――

 もっともな動機です。

 とはいえ――

 自然は――
 それを絵画や写真や映像を用いて描くのなら、ともかくとして――
 ただ言葉だけを用いて描くのであれば――
 そんなに美しくは感じられないものです。

 それを目の当たりにする人の心情こそが――
 自然に美しさをもたらします。

 そのことを――
 自然詩の作者たちが知らなかったはずはありません。

 もちろん――
 孟浩然も、知らなかったはずがない――

 ……

 ……

 いわゆる『花木蘭伝説』が『春暁』に描かれる自然の美しさに彩りを与えているとしたら――

 その“彩り”は、どんなものでしょうか。

 ……

 ……

 僕は、
(きわめて現代日本的な“彩り”である)
 と考えています。

 なぜか――

 ……

 ……

 それは――
 その“彩り”が、いわゆる、

 ――萌え

 の概念に直結するといえるからです。

 詳しくは、あすに――