何が、小説を小説たらしめるのか――
文芸畑で、しばしば議論になる。
様々な結論が導かれようが――
実は、そんなに複雑な問題ではないと思っている。
唯一の基準は、
――それが小説として書かれた否か。
だ。
小説の基幹は虚構性――つまり、嘘――にある。
よって、例えば、小説を小説たらしめる形式のようなものは、記述しがたい。
むしろ、
――存在せぬ。
といったほうが正しかろう。
随筆のような小説、評論のような小説、韻文のような小説、駄文のような小説――どれも、小説たりうる。
もちろん、流行の形式、標準の形式、規範の形式などはある。
が、全ての小説に共通の形式などは、記述できぬ。
仮に記述できたとしても、複雑すぎて意味を成さぬであろう。
小説とは、どこまでも自由なものである。
とはいえ――
――これは小説だ!
と言い張れば、何でも小説になりうるわけではない。
多少なりとも客観的な必要条件は存在する。
その条件とは、
――作者の意図が読者に伝わっているか否か。
である。
意図を伝えるのは、文章の確かさだ。
つまり、小説を小説たらしめる必要条件とは、
――確かな文章で書かれているか否か。
である。
「確かな文章」とは、文法に則り、言葉が豊かで、リズミカルな文章のことだ。
小説論が、しばしば文章論に集約されるのは、そうした事情による。
大切なのは、確かな文章を書き出す技術のみ――
小説を小説たらしめる形式などは、存在せぬ。
*
ときどき――
小説を、物語で判断する人がいる。
――これは小説ではない!
と、不用意に断言する人がいる。
なぜ、そんなことが断言できるのか――
僕にはわからぬ。
たいていは、
――私好みの物語ではない!
と吐露しているにすぎぬ。
そうでなければ、
――文章が確かではない!
と指摘しているにすぎぬ。