マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

責任の取り方

 ――責任をとる。

 という言葉が不適切に使われる現状を――
 僕は、どうにも受け入れ難い。

 例えば――
 政治家などが「責任を取る」といった場合に、たいていは、

 ――辞任する。

 という意味になる。
 が、そうではないとする見解も成り立ちうる。

 ――任を全うする。

 という意味が、そうだ。

 僕にいわせれば、こちらの方が遥かに自然な解釈だ。

 が、どういうわけなのか――
 この国では、

 ――責任を取って辞任する。

 という文句が多用される。

(辞任したら、責任なんか取れないじゃんか!)
 などと、僕は思う。

(辞めるってことは、つまり、途中で投げ出すってことだろ?)
 と――

 僕が考える「責任を取る」とは、

 ――任務と心中する。

 ということだ。

 任務の未完遂の確定をもって、己の死を思い定める――
 そういうことである。

 つまり、

 ――自分が死んだら、任務の続きは誰にもやらせない。

 と覚悟を決めることだ。

 もちろん――
 ここでいう「死」は「社会的な死」であって「生物的な死」ではない。

 が――
「死」であることに変わりはない。

 その任にある自分が消え失せる、ということである。

 だから、

 ――責任を取って辞めろ。

 というのは、異様に凄惨な文句であるばかりか――
 はなはだ非建設的な文句でもある。

 つまり、

 ――さっさと社会的に死んで、任務は途中で放り出せ!

 と、いっているに等しい。

 これでは――
 ただの嫌がらせではないか。

 ――能力がないから辞めろ。

 というほうが、まだしも親切である。