マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「責任をとって辞任する」の実態

 以下のことは――
 何年か前の『道草日記』に書いたことなのですが――

 その時も今も、まったく同じ気持ちであり、同じ考えなので――
 また改めて書こうと思います。

    * *

 この国では――
 なぜか、

 ――責任をとること

 と、

 ――懲罰を受けること

 とが同一視される傾向にあります。

 例えば――
 ある会社が傾いたときに――
 その会社の社長が、

 ――責任をとって辞任せよ。

 と迫られるようなことも――
 この国では、とくに奇異とは感じられない風潮があります。

 これは――
 よく考えてみると――
 大変に、おかしなことで――

「辞任すること」は、どちらかというと、「責任を放り出すこと」に近く――
 およそ責任をとったことにはならないはずです。

 責任をとるのであれば――
 最後まで社長の座にとどまり、会社の立て直しに全力を注がなければなりません。

 にもかかわらず、「責任をとって辞任せよ」が、ごくありふれた言い回しになっている――

 こんなに矛盾した言い回しは、ほかにないといってもよいでしょう。

 なので――
 僕は、この言い回しを、
(決して使うまい)
 と心に決めています。

     *

 ――責任をとって辞任する。

 の実態は、

 ――責任をとらせてもらえずに、辞任を強要される。

 です。

 たしかに――
 会社が傾いたときに、社長が辞任することで周囲が納得する場合もありますが――
 それは、

 ――その社長よりも有能そうな社長候補が他にいる場合

 だけです。

 この場合には――
 社長は「無能」の評価を甘んじて受け、辞任を強要されることになります。

 つまり、

 ――あなたが社長でありつづける限り、うちの会社は迷惑を被りつづけるのだ。

 と公衆の面前で糾弾されたことに等しいのです。

 ときどき、誰かに対して「責任をとって辞任せよ」と声高に叫ぶ人がいますが――
 その人は、自分が懲罰を求めて糾弾していることに、たぶん気づいていません。

 気づいていないからこそ――
 そんな傲慢な要求を声高に叫ぶことができるのです。