マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中身のない文章であっても

 物を書ける喜びというのは――
 第一に、考えを深め、まとめられる喜びであり、あるいは考えを研ぎ澄ませ、明瞭にできる喜びである。

 もちろん、喜びは、それだけではなく――
 第二に、考えを豊かに飾りつけられる喜び、あるいは、考えを面白おかしくみせる喜びというものもある。

 ところで――
 しばしば、中身のない文章というものに出くわすが――
「中身のない文章」というのは、ふつうは、書き手が第一の喜びを十分には感じずに書いてしまった文章をさす。
 誰か他の人の考えを受け入れ、理解しただけで、書いてしまった文章である。

 が、それでも――
 第二の喜びさえ十分に感じられたなら、一定の意味はある――
 と、僕は思っている。

 つまり――
 書き手が自分の考えを深め、まとめたり、あるいは、研ぎ澄ませ、明瞭にしたりすることはなくても――
 それを豊かに飾りつけ、面白おかしくみせることができれば――
 物書きとしては、十分に価値のある営みだと、僕は思っている。

 だから、

 ――これは中身のない文章だから下らない。

 などと安易に批評する者に、僕は信を置かない。

 本当にどうしようもない文章というものは――
 中身がないだけではない。

 外身も、みすぼらしい。
 素っ気なくて、つまらない。

 ここが目の付けどころである。

 あたりの前のことだが――
 中身のなさを見抜くには、相当な眼力が要求される。

 が、外身は、そうでもない――
 読めばわかる。

 文章が上手になりたかったら――
 まずは、外身を綺麗に調えることだ。

 中身は、あとからついてくる。

 少なくとも、そう信じ――
 地道に外身を調えていくのがよい。