「美女」という言葉が嫌いである。
ジュクジュクでブヨブヨで、異様に甘ったるい菓子類のイヤらしさ――が感じられる。
それに対し――
「美少女」という言葉は大好きだ。
サラっとしているのにフンワリしている純白のシーツの仄かな湿り気――が感じられる。
好対照というよりは――
共通項が少なすぎ、安易に比較もできない、という感じである。
もちろん――
言葉の問題ではない。
たしかに、
――「びじょ」より「びしょうじょ」のほうが響きとしては上品である。
というような主張が、全く通用しないとは思わないが――
今、問題にすべきは、「美女」や「美少女」が意味するところ――つまり、観念の問題であろう。
美女と美少女との境界に、いったい何が横たわっているのか。
現実の美女と美少女とを区別するのは容易である。
容色をみればよい――より客観的には、生年を調べればよい。
が、観念としての美女や美少女は、そうはいかない。
少なくとも、美女と美少女との境界を、言葉や記号で明示することは困難だ。
例えば、
――18歳未満を美少女とし、18歳以上を美女という。
ような線引きには意味がない。
美女は、昔、美少女であったとは限らない。
美少女は、将来、美女になるとは限らない。
美女や美少女の観念は、時間の経過とは無縁である。
ひとつ、いえそうなことは、
――男からのベクトルが、大いに違っていそうである。
ということだ。
美女へは太く、短いベクトルが――
美少女へは細く、長いベクトルが――
それぞれに伸びている。
美女も美少女も、所詮、男が弄ぶ観念だ。
視点としての男との関係性で論じるのが筋である。
そうした点から論じたときに――
美女と美少女とでは、差異がある。
もう少し卑近にいうならば――
――あの人って、美女だよね。
とは、容易にいえても、
――あの娘(こ)って、美少女だよね。
とは容易にいえぬのではないか。
「美少女」は「美女」とは比較にならぬくらいに――
重い。