学問の魅力というのは、真理の探究にあるといえる。
この面をさらに細かく腑分けしてみよう。
「真理」と「探究」と、はたして、どちらに重みが置かれているのか――
それとも、どちらも同じくらいの重みなのか。
学問に対し、芸術がある。
ここでも、芸術との対比が有効であろう。
探究は学問の専権ではない。
芸術でも探究は可能である。
どうすれば満足のいく作品が得られるか――
芸術か日夜、探究している。
では、芸術にも真理はあるのか。
あると力説する人々が多いのは知っている。
国や時を越え、人の心に感動をもたらす作品は、たしかに存在する、と――
僕は、この見方に懐疑的だ。
たしかに、国や時を越える作品は少なくない。
が、その感動は多くの人々に共有されているということだけであり、全ての人々に共有されているわけではない。
例えば、どんなに絵画に慣れ親しんでも、好きな作品と嫌いな作品とがある。
全ての作品に等しく感動することなどは、ありえない。
真理とは全ての人々に共有されうる事実のことだ。
好き嫌いを超越して共有される。
そこに感動の有無が入り込む余地はない。
真理に触れたということで感動をすることはあっても――
真理に触れる過程に感動はない。
学問の本質は「探究」よりは「真理」に寄り添っている。
全ての人々に共有されうる事実を探り当てることに力点が置かれている。
単に何かを探り当てればよい、というものではない。
つまり――
学問の営みは全他者との交流が前提である。
「全他者」というのは「自分意外の全ての人々」だ。
国や時を越えている。
いにしえの学者たちや遠い異国の学者たちとの共通了解を探り――
遥か未来の未知の文化に親しむ学者たちに何事かを残す営みが、学問である。