書きたいわけの次は、読みたいわけです(笑
実をいいますと、ふだん僕は小説を読みません。
先月の『覆面作家企画3』などでは、ひと月の間に、ずいぶんたくさんの小説を読みましたが――
そんなことは極めて異例なことです。
なぜ、小説を読まないのか――
読みたくないからではありません。
むしろ、十分な時間をかけ、十分な気合いを込めて読む分には、楽しくてしょうがないのですね。
今でも、例えば、高校生に現代文を教えるときに小説を取り扱うことは大好きです。
これほどタップリと手間をかけて読める機会は、そうはありませんので――
が、こうした読み方で味をしめているということは、実は諸刃の剣なのですね。
普通の読み方では飽き足らなく思えてくる――
例えば、高校生に小説を教えるときには、単行本で数ページ分の抜粋部分や短編作品を、何度も読み込みます。
最初は、読者の立場で読み込むわけですが――
この段階は、かなりツラい……(笑
作品が、現代のプロのものであっても過去の文豪のものであっても、ほぼ必ずといってよいほどに違和感を覚えるのです。
違和感は、当初は矛盾とうつります。
――こんなヤツ、いねえよ!
とか、
――こんな世界、ヘンだよ!
とか、
――こんなこと、起きねえよ!
とか――(笑
当然ですね、作者は自分ではないのですから――
が、繰り返し読み込んでいくうちに、読者の立場が、次第に作者の立場へと移っていくのですよ。
――なるほど! だから、こう書いたのね!
とか、
――ああ、わかる、わかる! その気持ち――
とか――
このときに、違和感や矛盾は、些事となります。
静かな感動や温かな共感が胸を満たすのです。
ちなみに、高校生に小説の入試問題を教えるときには、読者や作者の立場とは別に、出題者の立場というものも意識しないといけません。
なので、話は更にヤヤコシくなります(笑
それはそれで、面白いのですよ。
例えば、出題者の立場を意識することで、読者の立場を相対化でき、かつ、作者の立場に違った角度から迫れます。
が、多くの人には参考にならないでしょうから――
ここでは割愛しましょう(笑
こうした読み方を知っていると、もはや普通の読み方が無意味なものに思われてきます。
とくに自分で小説を書く身としては、そうです。
小説の普通の読み方というのは、何か虚構の物語に触れたくて気軽に読み始めるものだと思いますが、自分で小説を書く身としては、そういうときは、自分の小説を書き始めます。
少なくとも僕はそうです。
僕が小説を読みたいときというのは、その作者の視点を、まるごと理解したくなったときなのですね。
ものすごく消耗しますよ。
だから、ふだん僕は小説を読まないのです。