マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

何か絶対的に正しいこと

 20代の頃は、何か絶対的に正しいことを追い求める毎日だったと思います。

 何か絶対的に正しいことを認知し、理解し、活用する――
 そういうことができるような人間になりたいと、心の底から願っておりました。

 20代の僕は、今にして思えば滑稽なほどに、数学や物理学などに前のめりになっていました。
 つまり、当時の僕は、数学や物理学の領域に、何か絶対的に正しいことが存在しているようにみえたのです。

 が――
 30代になって、
(そんなものは存在しない)
 と思うようになりました。

 これをいうと――
 素の僕を知る人は、

 ――あれ?

 と思うかもしれません。

 僕は、今も、何か絶対的に正しいことを認知しようとし、理解しようとし、活用しようとするばかりでなく――
 そのことの大切さを、後進の人たちに必死で伝えているようにみえるはずだからです。

 実をいえば――
 人が、何か絶対的に正しいと思えることを自分の胸に抱くことは、とても大切なことだと信じております。

 そういうものが抱けない人は、良い意味でも悪い意味でも、強くは生きれない――
 強く生きれない人にとって、世界は過酷です。

 世界は、そのようにできております――
 残念ながら――

 ところが――
 その「絶対的に正しい」というのは、あくまでも当人にとっての――あるいは、その周辺の人々にとっての――「絶対的に正しい」であって――
 それ以外の人たちにとっては、それほどに正しくはないのです。

 だから、

 ――世の中には絶対的に正しいことなど存在しないけれども、何か絶対的に正しいと思えることを認知し、理解し、活用しようとする態度は大切だ。

 という結論になるわけですね。

 この結論は、教育の眼目を1つ増やします。

 すなわち、

 ――何か絶対的に正しいことを見つけ出せ。ただし、それを妄信するな。

 です。