北京オリッピックのTV中継や新聞報道をみていて、日本人選手の敗北を知ると――
どういうわけか、ガッカリしますね。
別に自分が敗北を喫したわけではないのに、ガッカリする――
逆に――
日本人選手が勝利すれば、妙に気分が高揚してくる――
別に自分が勝利を挙げたわけではないのに――
これも、ナショナリズムの亜型でしょうか。
僕は、これまで、ナショナリズムについて突っ込んで検索したことも議論したこともありませんから、明確に断定はできませんが――
たぶん、そうなのでしょうね。
自分が帰属する組織なり共同体なりへの親近感や愛着心が、こうしたナショナリズムの根底に横たわっていることでしょう。
他人のために、真剣に一喜一憂できる感性というのは、素晴らしいものです。
それを無下に否定するものではありません。
が、その一喜一憂が度を超えれば、概して、見苦しくなります。
オリンピックの場合、一喜一憂の対象である「他人」と、一喜一憂の主体である「自分」とを繋ぐものが、たぶん、ナショナリズムです。
ナショナリズム的な要素があるからこそ、「他人」であっても真剣に共感しうるのであって――
もし、この要素が欠けていれば、「他人」への真剣な共感は非常に難しい――
例えば――
オリンピックのTV中継などで、その日、初めて知ったような国から参加している選手に真剣に共感することが、いかに難しいかは――
ちょっと想像すればわかることです。