科学者の習性として、
――疑い深い
ということが挙げられるでしょう。
科学者は物事を、そう簡単には信じないものです。
例えば、ある日、別の科学者から、
――実験 A から結果 B を得た。よって、知見 C を得た。
といわれても――
科学者は、その主張を即座には受け入れません。
――結果 B から直ちに知見 C がいえるか?
と考えたり、あるいは、
――実験 A の結果は本当に B であったのか?
とか、
――そもそも、実験 A は狙い通りに行われたのか?
とかいった方向にまで、考えを進めたりします。
科学者は、疑うこともまた商売の一部です。
何かを疑うということは、同時に何かを信じることでもあります。
全てを疑えば、結局は何も疑わなかったことと同じです。
黒紙に黒字を記すようなものなのですから――
科学者が物事を疑う際に、自身の拠り所とするものは、事実認識および論理運用の2つでしょう。
どれを事実と見なすか、また、いかに論理を運んでいくか――
その見なし方や運び方は、誰かが時に個人的に間違えることはあっても――
その間違えは、他者からの指摘などによって、十分に矯正が効くものであると、科学者たちは信じています。
科学者は、自分たちの事実認識や論理運用の在り方にまで、根本的な疑いを挟むことはしないのですね。
つまり、科学者たちは、互いに疑い疑われあうことによって、かえって強固なコミュニティを形成しているようなところがあります。
その疑心暗鬼のコミュニティで膠(にかわ)の役を務めているのが、事実認識や論理運用への基本的な信頼です。
この信頼がなければ、コミュニティは瞬時に瓦解します。
逆にいえば、事実認識や論理運用が怪しいとみなされれば、どんな科学者であっても、その疑心暗鬼のコミュニティからは排除されるということですね。
少なくとも建前としては、そうなっております。
したがって――
もし科学者らしく振る舞おうと思ったら、科学の知識は二の次で構いません。
科学的な事実認識や論理運用こそが大切なのです。
それらを基に、常に物事を疑い続ける姿勢が大切なのです。