昨日の『道草日記』で、
脳科学 = 哲学的ゾンビ学
の等式を示しましたが――
つまるところ、これは、
――脳科学は壮大な背理法に従うべきだ。
という主張です。
背理法というのは――
想定される結論が2つしかなく、それら2つが相反するときに用いられます。
例えば、A、B の2つの結論が想定されるとしましょう。
A が正しければ B は正しいとはいえず、B が正しければ A は正しいとはいえないとします。
このときに、本当は正しい結論は A だと思っているのだけれど、A が正しいことを証明するのは非常に難しそうなので――
わざと B が正しいことを証明しようとし、その証明の過程で、深刻な矛盾を見出し、
――よって、B が正しいことは証明できない。よって、A が正しい。
と結論付けます。
その「深刻な矛盾」は、原理的に受け入れ不可能などうしようもない矛盾であることが望ましいのですね。
通常、そんな矛盾は忌避されるのですが、背理法の面白いところは、そのような矛盾が歓迎されるところです。
以上を脳科学に当てはめると、想定される2つの結論は以下の通りです。
――哲学的ゾンビは存在する(結論B)
――哲学的ゾンビは存在するとはいえない(結論A)
このうち、僕らは、自分自身に心の内面があることを知っているので、結論A が正しいものだと何となく思っています。
少なくとも結論B を積極的に支持する気にはなれない――
が、脳科学の目指すべきゴールは、当面の間は、結論B なのです。
結論B を本気で証明しにいく――その覚悟が強い人ほど、現代脳科学の旗手となりうるでしょう。
その証明の過程で、原理的に受け入れ不可能な矛盾――つまり、どうしようもない矛盾――が出てきたら、それは大発見です。
この際に、
――その「どうしようもない矛盾」なら、すでに発見されている。「自分自身に心の内面がある」が、それだ。
という主張は退けられねばなりません。
脳科学は学問です。
学問は自分自身を相手にしません。
徹頭徹尾、他者を相手にします。
「どうしようもない矛盾」というのは、こうした制約の下で発見されるべきものです。
つまり、目の前の脳が哲学的ゾンビの脳であるとみなすことで、原理的に受け入れ不可能な矛盾が生じればよいのです。
もちろん、そうした矛盾は、未来永劫、みつからないかもしれません。
それはそれで、別に困りはしないのです。