マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

哲学的ゾンビ学

脳科学」という言葉があります。
 文字通り、脳を科学的に研究する学問分野のことですが――

 僕は、この「脳科学」という言葉が、ピンとこないのですね。
 英語で、

 ――brain science

 といわれれば、少しはピンとくるのですが――

 まあ、それには慣れの問題もあるでしょう。

 実は「脳解剖学」とか「大脳生理学」とかならピンとくるのですよ。
 父が脳を研究する科学者だったので、そうした日本語は幼心に覚えているのです。

 が、父の口から「脳科学」という日本語は、たぶん一度もきいておりません。
 父は7年前に亡くなりましたが、「脳科学」という日本語は、当時は今ほど一般的ではありませんでした。

 ところで――

     *

 僕が「脳科学」という言葉にピンとこないのは――
 脳科学の目指すべきゴールが、少なくとも僕の中では、明瞭にみえたからです。

 そのゴールとは、

 ――哲学的ゾンビ

 です。

 哲学的ゾンビとは、いわゆる心脳問題(「脳はいかに心を生み出すのか?」の問い)が議論されるときに、常に念頭に置かれる概念です。
 簡単にいうと、外見や中身は僕たち人間と同じなのに、人間なら誰しもが知っている自分自身の心の内面をもたない存在のことです。

 そのような存在は、これまで確認がされていません。
 つまり、哲学的ゾンビは現実世界には存在しないと考えられています。

 にもかかわらず、哲学的ゾンビは論理的には存在が可能です。
 現代科学は、その可能性を否定する所見は1つも持ち合わせておりません。

 では、何が否定をしているのかといえば――
 それは、僕たち一人ひとりがもっている信念です。

 ――自分には心の内面があって、そのことは自分はよく知っている。

 という信念です。

 ここで重要なのは、「自分には」の部分であって、例えば「家族には」や「友人には」ではないということです。
 心の内面については、自分自身のことしかわかりません。
 他者については、「たぶん持っているんだろうな」と想像することしかできないのです。

 ということは――
 僕たち一人ひとりにとって、他者は哲学的ゾンビに他なりません。

 少なくとも、哲学的ゾンビとは見分けがつかない存在です。

 脳科学は、あくまで学問ですから、基本的には、自分自身を相手にはしません。
 自分以外を、つまり他者の脳を、相手にします。

 よって、

 ――脳科学の対象は、哲学的ゾンビの脳か、それに似た存在の脳である。

 との結論を得ます。

 この結論は、脳科学に対する僕の印象を大きく変えました。
 なぜならば、要は、

  脳科学哲学的ゾンビ

 というのですから――
 この等式は、20代の僕には、脳科学の根底を揺るがすものにみえました。

 なお、誤解のないように付記しますが――
 この結論は、脳科学の価値を少しも減じません。

 脳科学者は、哲学的ゾンビを究める立場にあります。
 それはそれで意義深いことだと、僕は考えています。

 その結果、哲学的ゾンビの論理的矛盾が科学的に明らかになれば、心脳問題は新たな局面を迎えることでしょう。