マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

教師のジレンマ

 ――人が人に本当に伝えられることというのは、その人が本当に信じていることだけだ。

 という考え方があります。

 これによれば――
 詐欺師は自分のウソをときに作話とはみなしていないことになります。

 そればかりか――
 俳優は自分の芝居をときに演技とはみなしていないことになりますし――
 作家は自分の物語をときに虚構とはみなしていないことになります。

 詐欺師はともかく――
 俳優や作家は、たしかに、そういうところがあるでしょうね。

 自分の芝居を演技とみなし、自分の物語を虚構とみなしていれば、そのぶん迫力は弱まるでしょう。
 迫力が弱まれば、そのぶん人の心を動かしがたくなります。
 それでは、俳優として、あるいは作家として、一流の仕事はできません。

 大きな声ではいえませんが――
 商人や学者や宗教家や政治家も、たぶん事情は同じです。

 何かを伝えようと思ったら――
 たとえ、そのことがウソであるかもしれなくても――
 それをホントだと思い込まなければなりません。

 こうした割り切りに最も疎そうな職業人は、どれでしょうか。

 僕は、どうも教師のような気がしてなりません。

 多くの教師は、当然のことながら、本当に正しいといわれていることしか、教えようとはしません。

 が――
 その「本当に正しいといわれている」の中身に実感が伴っていない限り、それはウソっぽく聞こえてしまうのです。

 そういう教師の指導力には――
 残念ながら――
 限界があるといわざるをえないでしょう。

 教師は、誠実であろうとすればするほどに、非力で愚鈍にみえることがあるのです。

 逆に、一見して才気あふれているようにみえる教師というのは、存外、不誠実であるのかもしれません。