ある精神科医の方がご講演をされていて――
突然、笑い話をご紹介になったのです。
が――
その話のどこが笑えるのかが、なかなかわからずに――
その前後の文脈までも見失ってしまいました。
「木をみて森をみず」とは、まさにこのことだと思ったものですが――
気になってしまうものは、どうしようもないですよね。
「なぜ?」との疑念が、かえって持続的な思考の活力につながる事実は、否定できません。
それで気づかされたのですが――
*
僕らは、大局的な物の見方ができないことを「木をみて森をみず」などと言い表し、ときには戒め、ときには嘲ったりします。
とくに僕は、この格言が大好きで、ことあるごとに引き合いに出しております。
が――
この考えは、ときに人々の視野を狭くすることがあるのではないかとも思うのです。
極端な話――
いかなる人も、木と森とを目の当たりにしたときには、常に木よりも森のほうに興味をもつべきである、という考えは――
たぶん危ういものでしょう。
場合によっては、ひとまず森のことは措いておき、まずは木のことをじっくりとみる――
ということがあってもよい――
とくに、最初に木の不思議さに心を打たれた人は、やはり木をみつづけるべきでしょう。
木と森とでは、次元が異なります。
もちろん、木が低次で森が高次という見方はできますが――
それも一つの見方にすぎません。
森の働きの本態は、森を構成する木々の一本一本が担っているのですから――
木こそが森を森たらしめていると、みなすこともできます。
とはいえ――
講演のような場合では、常に「木」よりも「森」のほうが大切ですね。
講演では、常に講演者のメッセージが本質です。
そのメッセージを確かなものにするために、例えば、笑い話が挟まれたりするのですから――
つまり、常に「木」よりも「森」のほうが大切であるといえるときこそ、「木をみて森をみず」の格言が文字通りの効力を発揮します。
が――
視野を広く保つためには、常に「木」よりも「森」のほうが大切であるとはいえないということは、心のどこかに止めておくべきでしょう。