マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

叱る、恨み言をいう

 昨日、街中を歩いていたら――
 親子づれが信号を待っていまして――
 40代くらいのお母さんに、4、5歳の男の子です。

 待っているうちに――
 男の子はアスファルトの上に黒くて小さく動くものをみつけます。

 虫です。

 次の瞬間――
 男の子は、その黒くて小さく動くものを、自分のスニーカの裏で踏み付けました。

「ああ!」
 と、お母さんが叫びます。

「どうして、そういうことするの! 小さな虫を踏んづけたらダメでしょう!」
 ものすごい剣幕です。

 男の子の頭を今にも本気で引っ叩こうとしています。
「今度は私があんたの頭をつぶしてやる」

 その様子に怖れをなして――
 男の子は、あらぬヘリクツを並べ立てます。

「だって、この虫は悪い虫なんだもん」

「あんたみたいな大きな足で踏んづけたら、ひとたまりもないでしょう!」

「だって――」

 男の子は、それ以上、ヘリクツを並べることはできませんでした。

 お母さんは、我が子が自分の目の前で小さな命を奪ったことで、気が動転してしまったらしいのです。
 その後も「小さな虫を踏み殺してはいけない」と繰り返し、「二度と同じことをしてはならない」と叱り続けました。

 少し離れたところで、やはり信号を待っていた僕には――
 我が子の残虐な行為に衝撃を受けたお母さんの気持ちが、よく伝わってきまし。

 が――
 そのお母さんの説教を受け入れることができない男の子の気持ちも、かなりよく伝わってきました。

 実は――
 お母さんよりも男の子のほうに、より深く同情しました。

(あれじゃあ、伝わらないよな)
 と――

 だって、そうではありませんか。
 躊躇なく虫を踏み殺した幼児に、道徳を説く意味はあるでしょうか。

 相手は何もわかっていないのです。
 命がどういうものか――
 あるいは、それを奪うということが、どういうことか――

 それよりも――
 我が子が踏み殺した虫の亡骸を、丁寧に埋葬してみせるほうが、よほど心を揺さぶるでしょう。

 あるいは――
 踏み殺された虫のために、ひたすらに嘆き悲しんでみせるとか――

 あるいは――
 虫を踏み殺した我が子に、ひたすら恨み言をいってみせるとか――

 むしろ恨み言のほうが悪くないかもしれません。

 叱るのと恨み言をいうのとは違います。
 似て非なるものです。

 人は、子を叱るときは、たいてい自分の感情を覆い隠そうとしています。

 が――
 恨み言をいうときは、自分の感情を解き放っています。

 あのとき、男の子が学ぶべきだったことは、虫を踏み殺してはいけないという道徳ではなく――
 虫を踏み殺すと周りの大人が感情を乱すという事実であったと思うのです。