マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

作家の文芸的体験には

 作家の文芸的体験には普遍性があって、それが読者に伝わっていくことの不思議は――
 もっと関心を集めてもよいでしょう。

     *

 文芸に限らず、およそ芸術一般において――
 作品の起点となるものは、個々の芸術家に固有で一回限りの体験です。

 例えば、小説家がヒマワリの花をみて感動し、その体験が起点となって小説に結実したとして――
 そのヒマワリの感動は、その小説家にしか体験できなかったものであり、かつ、その小説家以外の者はもちろんのこと、その小説家当人でさえも、二度と体験できないものなのです。

 つまり――
 小説家の体験は、決して読者には共有されず、かつ、読者が追体験することもありえない、ということです。

 にもかかわらず、その小説家の意図や小説の価値が――全てとはいわないまでも、かなりの部分が――読者に伝わっていくのは、なぜなのか。

 場合によっては、小説の起点となった体験そのものが伝わっていくことさえ、あるのですよ。
 本来なら、決して伝わることがないはずなのに――
 その伝達経路は、「特殊性」や「一回性」という名の障壁によって、かなり強固に遮断されているはずなのに――

 それら障壁を開く鍵は何なのか。

 読者は、どうやって「特殊性」や「一回性」を乗り越えるのか。

     *

 最近、僕は思うのです。
「特殊性」や「一回性」という名の障壁は、実は、まったく開いていないのかもしれない、と――

 読者も小説家も、

 ――ああ、開いた!

 と思ってはいるけれども――
 実際には、双方ともに単なる勘違いをしているだけなのかもしれない――

 だとしたら――
 どうして勘違いは起こるのか――

 あるいは――
 その勘違いには、いかなり実態が伴っているのか――

 そこを考察するのが、文学であり――
 より一般化していえば――
 芸術学でもあるのでしょう。

 意外にも――
 こうした問題意識は、自然科学の範疇です。

 どちらにも、ヒトの脳が深く関わっているからです。
 小説家も読者も、ともにヒトですよね。