作家の文芸的体験には普遍性があって、それが読者に伝わっていくことの不思議は――
もっと関心を集めてもよいでしょう。
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文芸に限らず、およそ芸術一般において――
作品の起点となるものは、個々の芸術家に固有で一回限りの体験です。
例えば、小説家がヒマワリの花をみて感動し、その体験が起点となって小説に結実したとして――
そのヒマワリの感動は、その小説家にしか体験できなかったものであり、かつ、その小説家以外の者はもちろんのこと、その小説家当人でさえも、二度と体験できないものなのです。
つまり――
小説家の体験は、決して読者には共有されず、かつ、読者が追体験することもありえない、ということです。
にもかかわらず、その小説家の意図や小説の価値が――全てとはいわないまでも、かなりの部分が――読者に伝わっていくのは、なぜなのか。
場合によっては、小説の起点となった体験そのものが伝わっていくことさえ、あるのですよ。
本来なら、決して伝わることがないはずなのに――
その伝達経路は、「特殊性」や「一回性」という名の障壁によって、かなり強固に遮断されているはずなのに――
それら障壁を開く鍵は何なのか。
読者は、どうやって「特殊性」や「一回性」を乗り越えるのか。
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最近、僕は思うのです。
「特殊性」や「一回性」という名の障壁は、実は、まったく開いていないのかもしれない、と――
読者も小説家も、
――ああ、開いた!
と思ってはいるけれども――
実際には、双方ともに単なる勘違いをしているだけなのかもしれない――
だとしたら――
どうして勘違いは起こるのか――
あるいは――
その勘違いには、いかなり実態が伴っているのか――
そこを考察するのが、文学であり――
より一般化していえば――
芸術学でもあるのでしょう。
意外にも――
こうした問題意識は、自然科学の範疇です。
どちらにも、ヒトの脳が深く関わっているからです。
小説家も読者も、ともにヒトですよね。