――学歴社会は一応は平等である。
という信仰が――
根強く残っています。
「一応は」とつく意味は、
――いったん学歴が作られてしまったら、平等ではなくなるのだが、それまでは平等である。
という意味です。
つまり、
――誰でも努力次第で立派な学歴を作ることができる。
ということですね。
一見もっともらしく感じられる主張です。
よって、そう心から信じてしまいたいところなのですが――
残念ながら、教育現場の現実を垣間みる限り、それは幻想に基づく主張といわざるをえません。
どんなに努力を重ねても思うような学歴を作れないケースは枚挙に暇がありません。
しばしば「親の年収が子の学歴を左右する」などと分析されますが――
そうした分析が真理を突いているとは思えません。
親の年収が良いのに思うような学歴を作れないケースもまた珍しくはないからです。
端的にいえば、
――立派なスポーツ選手になるのに素質や才能がいるように、立派な学歴を作るのにも素質や才能がいる。
ということに尽きます。
努力の多少や親の年収は皮相的な要因にすぎません。
この国は、良い意味でも悪い意味でも、学歴社会です。
よって――
もし努力次第でどんな学歴でも手にできるのなら――
それは、とても素敵なことです。
が――
現実は違います。
「努力次第でどんな学歴でも……」とは、ちょっといいがたい――
この残酷な真実を、どうやって伝えるのか――
その役目は親が担うしかありません。
少なくとも教師では担えない――
かなり過酷な役目といえます。
実際、その過酷さに多くの親が耐えきれないから――
「学歴社会は一応は平等である」という信仰が根強く残るのでしょう。
無理もないと感じます。