先週の土曜日の『道草日記』で――
ウソとホントとを混在させると、ホントのことが伝わりやすくなる――
と述べました。
例えば――
10 のうち 9 までがウソでも、残りの 1 がホントなら、その「1 のホント」が鮮烈に伝わっていく――
ということです。
この際に、「9 のウソ」は、ウソであることが明らかにされている必要があります。
もし、「9 のウソ」が、最終的にウソなのかホントなのか、誰にもわからないように伝えられている場合には――
「1 のホント」は「9 のウソ」に埋没します。
そうなれば、伝わるのは、ただの混沌です。
もちろん――
なかには、その“混沌”を楽しむ人もいるでしょう。
が――
そのような“混沌”が、情報としての価値をもたないことは自明でしょう。
虚構なら、“混沌”でもいいのです。
どれがホントで、どれがウソかがわからない――そのように奇を衒った小説や映画やマンガやTVドラマの話をききます。
そうした虚構は、それなりに娯楽性を備えているといえるでしょう。
が――
そのような虚構においてさえも、“混沌”は、実は、そんなには歓迎されません。
全てがウソであると明らかにされている虚構のほうが――
より多くの人に歓迎されるのです。
つまり――
「1 のホント」が「9 のウソ」に埋没しているような自伝小説よりも――
「10 のウソ」で塗り固められた伝奇小説のほうが、歓迎される――
ということです。